三峯 鄭道伝
鄭道伝(1342~1398)は朝鮮建国の立役者で朝鮮建国後、515年間続いた朝鮮王朝の憲法にあたる経国大典を作ったり、漢陽(漢城:今のソウル)遷都にあたってはソウルの設計者であり、朝鮮王宮の名前やソウル市内の地名などを命名した人。号は三峯。諡号は文憲。
- 1342年:鄭道伝は慶尚北道奉化を本貫とする奉化鄭氏で、先祖代々から奉化地域の地方公務員(無給名誉職)に仕えていた家系で3男1女の長男として生まれる。父鄭云敬(1305~1366)は1326年に科挙に合格しこの家系では初めて中央政府の官吏になった。父鄭云敬は死後、位が低くて政府から贈名をもらう事はできなかったが、親友達は彼の清廉で義理堅い気品から因んで「廉義先生」という個人的な贈名を与えてくれたと言う。
- 1359年(恭愍王8年):父鄭云敬が刑部尙書の位に就く。
- 1360年(恭愍王9年):崔氏婦人と結婚。
- 1362年(恭愍王11年):進士試(文芸創作に関する才能を漢詩でテストする試験)に合格し正式に政府官吏となる。
- 1363年(恭愍王12年):忠州牧の司錄(地方官吏)となる。
- 1364年(恭愍王13年):開京(今の開城)に戻り従7品位の典校主簿に就く。
- 1365年(恭愍王14年):王の秘書職である正7品位の通禮門祗候に転任。
- 1366年(恭愍王15年):1月には父が死、12月には母が死に、故郷の栄州(奉化)に帰り3年間廬墓暮らし(喪主が墓のそばに建てた庵で寝起きしながら喪に服すこと)をする。
- 1369年(恭愍王18年):三角山(ソウル付近)に戻り学問に精進。
- 1370年(恭愍王19年):師匠の李穡、同門の鄭夢周、李崇仁、金九容などが開京の成均館(昔の国立大学)で性理学を教えると聞き、訪ねる。
- 1371年(恭愍王20年):辛旽(1322~1371)が死ぬ。成均館の同門の推薦で成均博士(正7品)として性理学を教える。礼儀正郎(従6品)に就く。
- 1374年(恭愍王23年):9月に恭愍王が殺害され、この事実を明に知らせようと主張し、親元派の李仁任から憎まれる。
- 1375年(禑王1年):全羅南道羅州会津県居平部曲に3年間流される。
- 1380年(禑王6年):住み易い所に住むことが許され、秋に三角山(ソウル付近)に戻る。
- 1381年(禑王7年):貴族の弾圧で三角山、富平、金浦などを転々しながら学問や教育に時間を費やす。
- 1383年(禑王9年):秋に李成桂がいる咸鏡道をたずねて李成桂と意気投合し金浦に戻る。
- 1384年(禑王10年):9年ぶりに復職される。同門の鄭夢周(1337~1392)と一緒に明に使節として派遣され、明から禑王が高麗の王であっるとの認めをもらって帰る。
- 1388年(昌王1年):6月遼東地域を征伐するために出兵した李成桂が威化島から回軍し政権を掌握する。李成桂の推薦で王の秘書職(3品)、成均館の最高責任者(3品)となる。
- 1389年(恭譲王1年):趙浚、尹紹宗などと一緒に土地改革を断行する。
- 1391年(恭譲王3年):土地改革の続きとして科田法(土地を国有化し再分配する)を実施する。これで旧勢力(反対派)の反発が激しくなり陥れられて再び流される。
- 1392年(太祖1年):李成桂が狩の途中負傷したのを機会に、反対派の鄭夢周、金震陽などの弾劾が許され、栄州で逮捕される。しかし李成桂の5男李芳遠が反対派の主動の鄭夢周を善竹橋で暗殺することによって起死回生する。7月17日、南誾、趙浚など52名と共に李成桂を新王として立てて朝鮮王朝を開く。
- 1394年(太祖3年):9月に漢陽(ソウル)の設計をし、10月25日に漢陽へ遷都。
- 1395年(太祖4年):10月6日、景福宮、勤政殿、崇礼門など宮殿の建物の名前を作る。12月に新しい宮殿へ引越す。
- 1396年(太祖5年):漢陽(ソウル)の52方の地名を命名する。
- 1398年(太祖7年):8月26日夜2時ごろ、南誾(1354~1398)の側室の家で、南誾、沈孝生、李懃、張至和と共に李芳遠によって殺される。
- 1791年(正祖15年):鄭道伝の学問を再評価した正祖の命令で三峯(鄭道伝の号)集を新しく発刊する。
- 1865年(高宗2年):興宣大院君(1820~1898)が景福宮を立て直す時、漢陽の設計者である鄭道伝の勲爵を回復させるように命令。
- 1872年(高宗7年):鄭道伝をまつる神社文憲祠を建てる。
- 1912年:文憲祠を今の場所(京畿道平沢市振威面銀山2里)に移る。