ドラマ 鄭道伝(チョン・ドジョン)
鄭道伝(1342~1398)は朝鮮建国の功臣として歴史的に重要な意味をもった人物で朝鮮時代を理解するのに欠かせない人ですが、ドラマ化されたのは始めてです。このドラマを制作したKBS放送局は、去年(2013年)の韓国ドラマはフィクションが多かったに比べて、ドラマ鄭道伝はフィクションではあるものの歴史的事実にもう少し忠実したドラマであると主張し、2014年年明けから放送されています。高麗末期から朝鮮建国までの歴史物語は「龍の涙」という時代劇も有名で韓国、特に朝鮮時代を理解するのにいいドラマだと思います。
高麗時代
ドラマ鄭道伝は、高麗末期の時代的状況や実存人物の鄭道伝について少し理解した上で見た方がより楽しく見れると思います。高麗(918~1392年)は474年間続いた王朝です。高麗時代を理解するためには幾つかのキーワードを知る必要がありますが、文閥貴族・武臣政権・権門勢族・新進士大夫です。- 文閥貴族: 文閥貴族は高麗前期の支配層で、5品以上の中央官吏で政治的には地位、経済的には土地を世襲することができた。
- 武臣政権: 高麗中期約100年間の支配層で、元(モンゴル:1271~1368年)との戦いで没落する。私兵を持っていた。
- 権門勢族: 高麗後期の支配階級で、高麗初期の文閥貴族から生き残った貴族、中期の武臣政権から生き残った武臣、高麗後期約100年間元の支配下で、主に元に協力して成長して来た勢力(附元輩)を合わせて権門勢族と言う。この三つの勢力は地位や土地を世襲して来た上で、さらに土地の所有を乱暴に拡大し、高麗末期に社会的問題となる。
- 新進士大夫: 高麗末期から現れた勢力で、主に地方の中小地主の家系から科挙制度を通して中央に進出した。思想的には性理学を勉強した儒学者で、元の干渉に反対、権門勢族の横暴を批判、土地改革を主張する改革勢力で、高麗王朝を維持しながらの改革を主張する穏健派と高麗を引っくり返そうとする強硬派に別れる。
ドラマ鄭道伝の登場人物と人物相関図
※以下は実際の歴史を基に説明しています。相関図は上から下へ時間順(高麗→朝鮮)に人物を並べています。- 高麗王族
- 恭愍王(1330~1374):高麗31代王。即位初期は武臣政権を牽制しながら新進士大夫を登用し、元の支配を克服しようと努力したが、王妃(魯国大長公主)が死んだ後改革の意思を失う。1374年崔萬生と洪倫によって死骸される。
- 禑王(1365~1389):高麗32代王。11才で李仁任の後押しで即位し、1374年から1383年までは李仁任が摂政した。1388年李成桂一派のクーデタで廃位され、江華島に流された後除去される。
- 権門勢族
- 慶復興(?~1380):高麗最高官僚(門下侍中)だったが1380年、李仁任、林堅味などに誣告され、清州に流刑された後に死ぬ。
- 李仁任(?~1388):1374年に崔萬生と洪倫によって恭愍王が殺されると、その群れをすべて処刑し、禑王を擁立し政権を握った。仲間の林堅味、廉興邦、池奫などを要職に座らせ、横暴を振舞ったあげくに1388年にその一党は崔瑩、李成桂によって除去される。
- 崔瑩(1316~1388):1388年に遼東征伐に出陣した李成桂が威化島から回軍し、開京にもどり政権を掌握した。この時崔瑩クーデタ軍によって拘束され、流された後、李成桂によって反逆を図ったとの濡れ衣を着せられ処刑された。死に際に自分が潔白なら墓に草は育つまいと遺言を残した。その後本当に草が育たなく赤墳と呼んでいる。墓は京畿道高陽市徳陽区大慈洞にある。
- 新進士大夫
- 鄭夢周(1338~1392):慶尚北道浦項出身。1360年科挙で一等合格。1364年に李成桂と一緒に東北(女眞族)征伐に参加する。1379年に李成桂の下で倭寇討伐に参加する。1388年李成桂の威化島回軍には賛成だが高麗転覆には反対し、以後李成桂、鄭道伝の政敵となる。1392年李芳遠の刺客によって開京の善竹橋で殺される。
- 李穡(1328~1396):性理学者で鄭道伝、鄭夢周の師匠。鄭道伝、李成桂の高麗転覆に反対し、鄭夢周死後流刑から戻ってまもなく急病で死ぬ。
- 鄭道伝(1342~1398):李成桂とともに朝鮮を開いた性理学者。朝鮮の憲法を作ったり、ソウルの都市設計をするなど、500年間続いた朝鮮王朝の基礎を整えた人。しかし、太祖の後継ぎの選定を巡って李芳遠と対立し、李芳遠によって殺される。
- 河崙(1347~1416):はじめは李仁任の側近だった。その後李成桂の朝鮮建国に協力し、その後李芳遠の側近となった。
- 鄭道伝(1342~1398):1360年に成均試に合格。1362年に科挙(文科)に合格。
- 南誾(1354~1398):1374年科挙(文科)に合格。鄭道伝と共に李成桂の忠臣人物だった。1398年鄭道伝と共に李芳遠によって殺害された。
- 尹紹宗(1345~1393):1360年に成均試に合格。土地改革に賛成し趙浚と共に鄭道伝に協力した。
- 趙浚(1346~1405):1374年に科挙に合格。鄭道伝と共に李成桂を王に立て開国功臣となった。
- 新王朝勢力
- 神徳王后(1356~1396):李成桂の二番目の婦人で朝鮮王朝最初の王妃となる。しかし3代目の王になった李芳遠は一番目の婦人から生まれた人で、李成桂が死んだ後李芳遠は神徳王后墓(貞陵)をソウルの中心から今の所へ移転させた。
- 李成桂(1335~1408、在位:1392~1398):李成桂の父李子春(1315~1361)は、咸鏡道慶興を根拠地とし、元の官吏で後から高麗に帰化した。李成桂は1383年鄭道伝と意気投合し1392年に朝鮮を開いて太祖となる。しかし、野望を持った5男李芳遠によって同志の鄭道伝を失い、息子たちも殺され政治から引退する。
- 李芳遠(1367~1422、在位:1400~1418):世宗大王の父。李成桂の一番目婦人の5男で、李成桂の息子としては初めて科挙に合格する。李成桂の政敵鄭夢周を殺し、父の李成桂が王になるのに一番の貢献者だった。しかし李成桂・神徳王后・鄭道伝は神徳王后の息子を後継者にしようとした。これに反発して李芳遠は1398年、鄭道伝勢力と後継者たち(腹違いの兄弟)を除去する(第一次王子の乱)。
作家インタービュー
ドラマ鄭道伝は1998年に出版された小説「鄭道伝」を基にして作られたドラマです。ある雑誌で作家のイム・ジョンイル(임종일)さんとのインタービューを読んだのですが、ドラマを楽しむのに参考にしてください。
- Q: 高麗末期はどんな状況だったか?
- A: モンゴル(元)の支配によって独立した国家とは言えないほど酷い状況だった。王室は存在するものの腐敗し極まりなかった。権門勢族と元に寄生する附元輩が富と権力を牛耳って振る舞い、民は貧困していたし、政府は倭寇の侵略からも民を保護することができなかった。
- Q: 鄭道伝が一番最初に土地改革を断行した理由は?
- A: 鄭道伝は、王は国に頼り、国は民に頼るといったが、民ははたして何に頼っているのかというとそれは土地である。土地はもともと国の所有だから公田というけど、私田化してしまい王室と権力者のものになってしまって、民は’錐を差し込む土地すらない’と嘆いた。そこで土地改革を一番最初にするしかなかった。
- Q: 鄭道伝への修飾語は?
- A: どんな修飾語をつけたらいいか分からないくらいだ。哲学者、思想家・・・実際にこれらはもちろんのことで当時最高の文章家であったし、兵法書を書いたから兵術家であるし、医学書を書いたから医術家でもある。高麗史を整理し中国の歴史にも精通していたから歴史家でもあり、宮中の音楽を新しく作ったので音楽家でもあり、天文地理だけではなく風水にも詳しかったので天才を超えて超人だと言えるかな?
- Q: 鄭夢周に対する評価は?
- A: もともと鄭夢周は鄭道伝の革命同志だった。しかし現実政治に揉まれて革命精神は色褪せたあげくに、鄭道伝を陥れ殺そうとした。同志を裏切り革命には反逆したものだった。我らには高麗の忠臣としてまちがって知らされているけど、鄭夢周を忠臣化したのは朝鮮中期になった英祖(1694~1776)の時からである。鄭夢周と鄭道伝を比較する時に一つだけ覚えるべきことは、鄭夢周は高麗王朝ために尽くした人であり、鄭道伝はひたすら国と民のために尽くした人物であることだ。
- Q: 朝鮮建国に李成桂より鄭道伝の役割が大きかったのか?
- A: もちろんだ!鄭道伝が李成桂を持って使ってたからだ。ある日李成桂が鄭道伝を指差しながら’私の張子房’と言った。張子房とは劉邦に仕えて漢を建てた張良のことである。この時鄭道伝は皆の前で
’確かに張子房ではある、しかし間違っているのは劉邦が張良を使ったのではなく、張良が劉邦を使って漢を建てたのである’と言った。
そしてその場にいただれもがこれに反論しなかったそうだ。これで説明は十分ではないかな。
(更新:2014.4.4)