太祖 李成桂(イ・ソンゲ)
李成桂(1335~1408)。朝鮮建国の太祖(在位:1392~1398年)。全州李氏の始祖李翰の21代孫。李子春の次男。母は崔閑奇の娘で朝鮮建国後3代目の王太宗(李芳遠)によって懿惠王后へ追尊された。崔閑奇の名前は趙祚だったが娘が李成桂と結婚した後に母の苗字だった崔へ苗字を買え、名前も閑奇に変えた。
李成桂は父李子春とともに高麗恭愍王の雙城総管府攻撃の時に貢献し、高麗から元(中国)の勢力を追い払うのにも活躍し高麗の位をもらって以来活躍を進め、頭角を現して来た。1361年紅巾賊の侵攻により首都(開城)が陥落された時、李成桂は私兵2千人を率いて敵将2名を殺すなど首都奪還に功を立てた。1380年倭寇が500隻をもって南部地方を略奪し、高麗朝廷から倭寇討伐を命じられた李成桂は敵将阿只拔都を矢で殺し追い払った。この後倭寇の勢力は急激に弱まって行った。この後も武将として功を立て続け1388年には守門下侍中(高麗の最高官僚)なった。
一方1368年に建国された明は、元の支配にあった高麗の領土で、1356年恭愍王によって奪還した鐵嶺以北の領土に、鐵嶺衛という明の地方官庁を立てると言いながら公式的に脅して来た。これにたいして高麗では明の遼東地方を征伐しようと言う派(崔瑩派)と、これに反対していた派(李成桂派)に分かれていたが、結局遼東征伐が決まり遼東に向かっていた李成桂は途中の威化島で軍を回軍させ首都(開城)に戻り、反対派を潰して実権を掌握した。これまでの経緯を「威化島回軍」と言う。
1392年7月朝鮮王朝を開き太祖となる。
1394年10月(旧暦)に首都を開城から漢陽(ソウル)へ遷都。
李成桂には正妃(神懿王后韓氏:1337~1391)から6人の王子、継妃(神德王后康氏:1356~1396)から2人の王子がいたが、李成桂はこの中で継妃神德王后康氏から生まれた李芳碩を特に可愛がっていて世子として冊立した。しかし朝鮮建国に父李成桂を助けて大きく貢献してきた正妃神懿王后韓氏からの5男李芳遠は不満が多く、李芳碩をかばう朝鮮建国の功臣鄭道傳一派と神德王后の王子たちを自分たちを害しようとしているという理由をあげて殺した。(※これを王子の乱という)。この事件に大きく落胆した李成桂は次男の永安大君李芳果に王位を譲って引退し、故郷の咸興に戻った。
晩年には仏教に専念したそうで、昌徳宮で74歳で死んだ。李成桂の眞影は北朝鮮咸鏡南道永興郡の濬源殿と韓国全羅北道全州市の慶基殿に所蔵されていて、陵は京畿道九里市にある建元陵。
※ 太祖 李成桂の子供と婦人。