ドラマの奇皇后
韓国ドラマ奇皇后は2013年10月28日から2014年4月29日まで韓国のMBC放送局で放送されたドラマで、NHKで海外ドラマとして紹介されています。
奇皇后(1301~1369)は高麗人で、元(モンゴル)支配の時期に高麗から元へ貢女(宮女)として送られ、皇帝の皇妃まで上り詰めた女性で、歴史的に実在した人物ですが、実際の歴史とドラマの内容があまりにも離れているので韓国ではドラマの歴史歪曲問題として話題になりました。そこでここではドラマの奇皇后と本当の歴史とはどう違っているのかを紹介したいと思います。
奇皇后に関する一般的な評価
奇皇后はモンゴル帝国(元)の惠宗の皇后でモンゴル語の名前は完者忽都(Öljeitü-Khutugtu)です。奇皇后に関する批判は大体二つに分かれます。一つはモンゴルの立場から見て奇皇后が政権を握ったのがモンゴル帝国の滅亡の原因になった事、もう一つは高麗の立場から見ると、奇皇后の血族が高麗に多大な被害を与え、奇皇后の血族が殺されたのを理由に高麗を侵攻した売国奴としての評価です。
記録の中の奇皇后
参考:高麗・モンゴル帝国(元)の比較年表。(奇皇后の時代)
奇皇后に関する記録は「元史:1369年明によって編纂された元の歴史書」に載った記録が殆どだそうです。元史によると、「完者忽都(奇皇后)は高麗人で皇太子の愛猷識理達臘を生んだ。家柄は低いが后妃になってから高麗では地位が高くなった。
奇皇后に対する記録は元史の巻き114 皇妃列伝の中に収録された記事以外には殆どいないと言える。1368年惠宗(奇皇后の夫)が北へ退いた以後の行跡は知ることはできない。
「元史」によると、奇皇后は高麗人で、皇太子(昭宗)を産んだ。奇皇后の家柄は低かったが彼女が后妃になってから高麗で地位が高くなった。当時奇氏の3代がみんな王の爵位をもらったと言う。
奇皇后が皇后になるのに一番の立役者は当時の徽政院使であった禿滿迭兒であった。禿滿迭兒が惠宗(元11代目の皇帝:ドラマではタファン)に奇皇后を宮女(宮人)として推薦し、奇皇后は皇帝の飲料とお茶の世話をさせられた。奇皇后は綺麗で[頴] 賢くて[黠] 日が経つにつれて皇帝の寵愛を受けた。
元の有力者ヨンチョルと(燕鐵)ペガン(伯顔)
惠宗(ドラマのタファン)が皇帝になる頃に元の皇室の二人の有力者がいて、一人は燕鐵木兒(ドラマのヨンチョル)でもう一人伯顔(Bayan:ドラマのペガン)だった。燕鐵木兒は文宗の皇后と協力して明宗(惠宗の父)を毒殺して権力を握ったために惠宗が皇帝になるのに反対し、年下で6歳の寧宗を擁立して摂政をしていた。しかし2ヵ月後寧宗が死に、仕方なく惠宗を皇帝に迎えたが明宗(惠宗の父)を毒殺した罪があるのでいつも怖がっていた。そこで燕鐵は娘の答納失里(Tana-Shiri:タナシルリ)を惠宗の皇后とするが、燕鐵が死んだ後伯顔(ペガン)が実権を掌握し燕鐵の家は急激に勢いが弱まる。
当然のことながら惠宗は父(明宗)を毒殺した敵の娘である答納失里を愛することができず、綺麗な高麗人の奇皇后を寵愛したと言う。答納失里は燕鐵の死後2年後に逆謀罪で除去され(1335年)、惠宗が丞相の伯顔とともに元の朝廷を正常化させた。丁度この時に惠宗の寵愛を受けていた奇皇后が皇太子の愛猷識理達臘(Ayur-Siridara:アユルシリダラ)を産み(1339年)権力の中心として浮き上がった。
奇氏、元帝国の皇后になる
惠宗は奇皇后を皇后に就かせたかった。ところが丞相の伯顔が正当な皇后族ではないとして反対した。当時元では皇室はオンギラト(弘吉刺)家門出身の女性から正室皇后を選ぶという不文律があし、これはチンギスハンから守られて来た原則であった。伯顔は名門のオンギラト家門出身であり、伯顔の娘の伯顔忽都が正室の皇后になった。
伯顔が権力乱用で職を失うと(1339年)、沙剌班が奇皇后を第2皇后とすることを要請し、奇皇后は興聖宮で住むようになり、自分を皇后の地位に就かせてくれた徽政院を資正院と改名し自分の権力の基盤とした。
奇皇后が資正院を掌握した時期は惠宗の親政の時期であり、名宰相の脫脫(タルタル)が朝廷を率いて元文化の最盛期となる。元は今までの数多いクーデタや暗殺、毒殺、疑問死などで混乱した時期を収拾して一時的に安定した統治期に入った。
奇皇后は自重しながら時を待っていた。奇皇后は暇を縫って読書し、歴代皇后たちの好き行いを調べ、宮中の女性たちの模範となる規律や作法を作った。奇皇后は貴重な料理が上がって来ると太廟(宗廟)へ先に供えて祭事を行ってから食べるなど宮廷の女性として模範となるよう努力した。
このような努力とともに奇皇后は資政院に自分の腹心である高麗人の高龍普を初代の資政院使として任命し、さらに高麗出身の宦官はもちろんモンゴル出身の高位管理を引き入れ強力な政治的な勢力を作り、これを基に14歳の息子の愛猷識理達臘(アユルシリダラ:後の昭宗)を皇太子として冊立するのに成功した(1353年)
奇皇后の腹心だった高麗出身の宦官朴不花も奇皇后の後押しで資政院使となった。もともと資政院は皇后の財物と賦稅を管理監督する機構であった。
奇皇后、息子(アユルシリダラ)の皇帝即位を図る
愛猷識理達臘(アユルシリダラ)が皇太子となる1353年頃は奇皇后の夫である惠宗(ドラマのタファン)が政治に飽きて本格的に淫奢や房中術にはまる時期だった。
このような宮廷の流れとは違って奇皇后は、大都(北京)に大飢きんが起こると(1358年)各官庁に命じてお粥を作って百姓に配給し救済するのに力を注いだ。さらに奇皇后は金銀と穀物やシルクなどを出して飢きんで発生した多くの犠牲者のために都城の11個の門に墓域設置し10万人あまりの葬式を支援した。僧侶たちに命じて水陸大会を開き、死んだ人たちの霊魂の救援ができるように援助した。
この仕事は高麗出身宦官の朴不花がすべてのことを取り仕切って行った。
一方、飢きんや紅巾賊の蜂起などで混乱した情勢とは逆に皇帝の惠宗は政治をせず淫らなことにはまっていて実質的に皇太子が代理していたので、奇皇后は皇太子を皇帝に即位させること(禪位)を図っていたのが惠宗にばれて皇帝は2ヶ月間奇皇后を目にしなかった。
この時から奇皇后は腹心の朴不花と丞相太平を通して中央権力を掌握して行った。惠宗は皇位を譲ることを拒否し、反対派と賛成派の中で内戦が起こった。
元、草原へ戻る
元の朝廷が内戦や権力争いで混沌しているうちに明を建国した朱元璋(洪武帝)は元の大都(北京)を攻撃し、惠宗は大都を捨てて北へ移動し夏の都だった上都へ逃げた。奇皇后も惠宗に付いて行った(1368年)。ここからの元を北元と言い、惠宗が初代皇帝になり、二人の息子が2代(奇皇后の息子)、3代皇帝に即位し1388年まで続いた。
過去のドラマや映画で登場した奇皇后をまるで妖婦のように表現しているけどこれは事実とは違うと思います。奇皇后が息子(アユルシリダラ)を皇帝に即位させようとしたため夫(惠宗)との間でトラブルはあったものの、記録によると惠宗は奇皇后を高く評価しているし、第一皇后が死んでから皇室と皇族の推薦で第二皇后になったのも奇皇后が皇后としての行いや態度がよかったからだと思えます。
結論
韓国で奇皇后に関するイメージが悪い理由は、中国で元が衰退して明が建国(1368年)する時代の変わり目で、朝鮮半島では元の支配下にあった高麗から朝鮮が建国(1392年)する時期であり、朝鮮を建国した人たちは親明反元の態度を堅持していた事情がベースにあり、朝鮮建国後朝鮮は中国を大中華、朝鮮を小中華と思う事大主義陥ってしまいます。それに長年の元の支配から高麗の中興を図った恭愍王が奇皇后の一族の横暴に起こって奇皇后の一族を殺し(1356年)、奇皇后は復習するために高麗を攻撃した(1363年)のも背景にあるかもしれません。しかし当時世界を支配していた元帝国の皇后の一族を皆殺しにしたので元の立場から考えれば高麗を攻撃するのは当然でしょうね。
しかしながら今回のMBCドラマの「奇皇后」は以前の奇皇后とは観点が違ったものの、あまりにも歴史的事実と離れた作り話なので歴史学者たちから’30話まで史実がない’などと批判されてます。そもそも奇皇后の名前も史実では知ることができません。ワン・ユ(高麗の王)も架空の人物で、高麗と元の歴史比較年表から分かるように、高麗と元は政略結婚で結ばれているので高麗を元の駙馬国と言い、高麗王の地位は元が滅亡させた国とは違って高かったのです。なのでドラマの中の色んな接点が史実とは違うわけです。
作成:2015.8.3