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江華島条約

雲陽号事件をきっかけとして朝鮮(1876)と日本の間に締結された条約。日本の軍事力による圧力に強いられ結ばれた不平等条約であり、この条約によって朝鮮は釜山の他に仁川(인천)、元山(원산)の2つの港を開港するようになった。

雲陽号事件

① 国内外の情勢

1873年頃から日本では朝鮮をめぐって征韓論が起きていた。これは対外的には、脱亜外交の一環としてやって来た西洋列強と結んだ不平等条約を改めようとした努力が失敗に終わってしまい、対内的には当時日本全国に広がっていた明治維新と改革に対する不評・不満によって始まった。しかし西郷隆盛の率いる征韓論者たいは岩倉・大久保などの内治の優先を主張する勢力の反対に会い、大規模な政治紛争のすえ政府から姿を消すようになった。以後明治政府は西郷隆盛の退陣から起き始めた武士階級と国民の感情を揉み消し、その関心を海外へ向かわせるために1874年に台湾を侵略した。

一方この時期朝鮮では強硬な鎖国政策を維持していた興宣大院君(흥선대원군)が失脚し、1873年12月から高宗が親政を始めるなど政治的に重大な変化が起きていた。これは韓半島侵略の土台を作ろうとしていた日本には有利な状況だった。さらに朝鮮政府は1874年中国(清)から日本は将来台湾を侵略したように韓国を侵略するとの警告が入った諮問をうけ、興宣大院君の手先として対日交渉を担当していた東莱府使(동래부사)鄭顯德(정현덕)などを処罰し、両国の関係改善のために友好的な態度を日本側に伝えた。

一方交渉再開のためにすでに釜山に派遣されていた森山茂は、このような朝鮮の友好的な態度は興宣大院君の失脚に伴った政局の混乱と政府の力が弱まったことから起因すると把握し、「目的を達成する最も効果的な方法は朝鮮に対して多少の力と圧力を加える事」と外務省に報告した。また彼は1875年釜山に再び派遣され4月15日に強硬な対韓砲艦外交を主張する建議書を日本政府に提出した。結局このような森山の強硬策は日本政府によって受けられ軍艦を派遣することとなった。

草芝鎭(초지진)
草芝鎭(초지진)
② 経過

軍艦派遣決定により雲陽号と第二丁卯号がそれぞれ5月25日、6月12日に釜山に入港した。これらは朝鮮の抗議を無視し沿岸を探測しながら武力的な砲艦示威を断行し、以後南海岸と東海岸を探測しながら無力示威を振舞っていた雲陽号は9月20日に江華島の東南側にある蘭芝島に停泊し、艦長の井上馨の他数十名の海兵はボートに乗って草芝鎭(초지진)へ侵入した。

これに江華海峡を守っていた朝鮮水兵も砲撃し、井上は雲陽号へ撤収し草芝鎭に対して大々的な砲撃を始めた。続いて濟物浦(現在の仁川)海岸にある永宗鎭にも砲撃を加え上陸作戦を繰り広げたが、朝鮮水兵は近代的な武器を持った日本軍に対抗出来ず、僉使李敏德の率いる 400~500人は敗走した。日本軍は武器を奪い永宗鎭に対して放火・殺戮・略奪を行ってから長崎へ戻った。

③ 歴史的な意義

この事件で朝鮮は日本の武力の前では無気力であることが明らかになり、日本では再び征韓論が盛んになり、雲陽号事件に対する朝鮮政府の謝罪、朝鮮領海の自由航行、江華付近地域の開港などを条件を要求した。暫くして日本政府は6隻の軍艦と800人の軍隊に護衛された全権代表団を派遣し、1876年 2月 27日 江華島で朝鮮と全文12条の韓日修好条約を締結したが、これは日本の強圧的な脅威によって結ばれた不平等条約であった。結局雲陽号事件は日本の韓半島侵略の一環として計画され、日本は不平等条約の締結をきっかけに朝鮮植民地化への一歩を踏み出すようになった。 -- 参考:Britannica百科事典 --