高麗とモンゴル(元)の比較年表
※ モンゴル帝国(元)時代の高麗とモンゴルとの政略結婚関係を中心に書いてあります。
高麗 | モンゴル帝国(元)・中国 | 日本 | |||||
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代 | 王(在位) | 備考 | 代 | 王(在位) | 備考 | 代 | 将軍と主な事件 |
23 | 高宗(1213~1259) |
麗蒙戦争(1231~1257年まで7回)の結果モンゴルの干渉下に入る。→忠憲王。 | 1 | 太祖(1206~1227) | チンギスハン。 | 鎌倉時代(1185~1333) | |
2 | 太宗(1229~1241) | チンギスハンの3男。金滅亡(1234年)。第1次高麗侵攻(1231年)。 | 4 | 藤原頼経(1226) | |||
3 | 定宗(1246~1248) | 太宗の長男。 | 5 | 藤原頼嗣(1244) | |||
4 | 憲宗(1251~1259) | 高麗降伏(1259年)。フビライの兄。 | 6 |
宗尊親王(1252) | |||
24 | 元宗(1259~1274) | 高宗の長男。忠敬王。 | 1 | 世祖 (フビライ:1260~1294) |
父はチンギスハンの4男。高麗忠烈王は婿。 国号を元に変える(1271年)。南宋滅亡(1279年)中国統一。 |
7 | 惟康親王(1266)。 元の日本遠征: 1次(1274)、2次(1281)。 |
25 | 忠烈王(1274~1298) | 元宗の長男。王妃齊国大長公主はフビライの娘。 | |||||
2 | 成宗(1294~1307) | フビライの孫。息子無しで死。 | 9 | 守邦親王(1308) | |||
26 | 忠宣王(1298) | ||||||
25 | 忠烈王(1298~1308) | ||||||
26 | 忠宣王(1308~1313) | 忠烈王の長男。母は齊国大長公主。王妃薊国大長公主は元眞宗の姉→フビライの曾孫。 | 3 | 武宗(1307~1311) | 成宗の姪。高麗忠宣王と親戚。 | 北条宗宣(1311) | |
4 | 仁宗(1311~1320) | 武宗の弟。後妃伯顔忽篤は忠宣王の義娘。高麗忠宣王と親戚。皇后答里麻失里は高麗人。 | 北条高時(1316) | ||||
27 | 忠肅王(1313~1330) | 母はモンゴル人。第2王妃濮国長公主はフビライの孫娘。 | |||||
5 | 英宗(1320~1323) | 仁宗の長男。 | |||||
6 | 眞宗(1323~1328) | フビライの曾孫。高麗忠宣王の王妃薊国大長公主とは従兄弟。 | |||||
7 | 興宗(1328) | 眞宗の長男。 | 北条守時(1326) | ||||
8 | 文宗(1328~1332) | 武宗の長男。 | |||||
9 | 明宗(1329) | 武宗の次男。 | 徒然草ができる(1330) | ||||
28 | 忠惠王(1330~1332) | 10 | 寧宗(1332) | 父は明宗。 | 鎌倉幕府滅亡(1333) | ||
27 | 忠肅王(1332~1339) | 1 | 惠宗(1333~1368) | 父は明宗。寧宗の腹違いの兄弟。 奇皇后 第2皇后に即位(1342年)。 明建国(1368年)。 明によって上都へ敗退(1368年)。ここからの元は北元と言う。 |
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28 | 忠惠王(1339~1344) | 忠肅王の長男。 | 室町時代(1336~1573) | ||||
29 | 忠穆王(1344~1348) | 忠惠王の長男。母はモンゴル人貞順淑儀公主。 | 1 | 足利尊氏(1338) | |||
30 | 忠定王(1348~1351) | 忠惠王の次男。 | 2 | 足利義詮(1358) | |||
31 | 恭愍王(1351~1374) | 忠肅王の次男。王妃はモンゴル人の魯國大長公主。 | 3 | 足利義満(1368) | |||
32 | 禑王(1374~1388) | 2 | 昭宗(1370~1378) | 奇皇后の息子。皇后は高麗人權氏と金氏。 | |||
3 | 平宗(1378~1388) | ||||||
33 | 昌王(1388~1389) | 以後元(モンゴル)は勢力が弱くなり、1635年満州族が建てた清(後金)によって滅亡する。 | |||||
34 | 恭讓王(1389~1392) | ||||||
朝鮮建国(1392) | 4 | 足利義持(1394) |