韓国釜山から対馬へ行く
※対馬旅行は日本から行くより韓国の釜山から行った方が便利で安くできる。
司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに隠岐・対馬の道という巻がある。司馬遼太郎は壱岐から対馬に渡ったけど、私は釜山からシーフラワーに乗り込み、上対馬の比田勝港(ひたかつこう:長崎県対馬市上対馬町にある地方港湾)へ向かった。乗船客は韓国人ばかりで、釜山港から比田勝港へは2時間弱で到着し、港近くでレンタカーを借り、対馬縦断ドライブに出発した。
まず目指したところは韓国展望台だった。韓国展望台の横にある記念碑には朝鮮通信使の通訳数百名を乗せた船が対馬を目前に難破し、ほぼ全員水死したことが刻まれている。肉眼でも遠望できる距離でありながら、当時の海路の厳しさを改めて認識させられた。
次に向かったのは千俵蒔山(せんびょうまきやま)という小さな山だった。上代、天智天皇政権は ① 白村江の戦いで大敗した後、唐・新羅連合軍の来襲を恐れ、ここに烽(遠火:とおび)という烽火台を設置し、この山に多くの ② 防人(さきもり)を駐留された。大宰府政庁へ繋がる烽火(のろし)の通信網は、その時の緊迫した国際情勢を反映したものである。しかし今はその跡影はなく、風力発電用の巨大なプロペラが設置されていた。
その後、③天道信仰の名残を残す天神多久頭魂神社(てんじんたくつたまじんじゃ)を訪れた。この神社は鳥居の奥に社殿はなく、山へ向かう深い森になっている両脇には狛犬ではなく石を積み上げたケルンのような石塔があった。このような形式は韓半島の海南や辺山半島に見られるもので、中国からの狛犬が定着する前の原型を留めているのではないかと思う。
①白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい):663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。この戦いは、唐・新羅連合軍の勝利に終わった。
②「崎(さき)守(もり)」の意。古代、筑紫・壱岐・対馬(つしま)など北九州の防備に当たった兵士。663年の白村江(はくそんこう)の戦い以後制度化され、初め諸国の兵士の中から3年交代で選ばれ、のちには東国出身者に限られるようになった。その後数度の改廃を経て、延喜(901~923)のころには有名無実となった。
③天道:日本においては、太陽神としても知られる。一般的にお天道様(おてんとさま)とも言うように太陽は神として祀られる。信仰心が伴わない場合でも太陽をお日様と呼ぶことがある。これ以外にもお月様、お星様という言葉がある。また天童信仰においては日の神の子として天童(てんどう)という言葉もある。てんとうむし(天道虫)なども一般的。(2012.4)