蒼空万里(ある飛行士の夢)- 著者:金光漢
※グライダーで世界飛行新記録をたてたある韓国人飛行士の自叙伝です。2006年に依頼によって自分で日本語訳したものです。(2007.12.26)
- 新記録への挑戦のための準備
- 滞空訓練のための持久力の培養
- グライダーに狂った朝鮮人の馬鹿
- 飛行少年団のグライダー指導教官として
- グライダー製作会社の工場の人たち
- 世界記録に向かって
- 1級滑降士の資格を取って
- 世界記録挑戦者の候補者になる
- 記録に挑戦する競争者たち
- 免状を回収され
- 「いこま山」は今日もこの胸に
- またもや挫折の恨を抱く
- 涙まみれの友情で廃棄された機体を再生
- ライバルの出現で緊張
- ついに世界記録へ挑戦
- 夜間飛行のための準備
- 正念場になってなんていうミスを
- 静かな世界から風の音だけが
- 雪雲の中で高度を守る
- 機体内で寒さと戦う
- 眠気を飛ばしながら
- 上昇気流に乗って滞空に粘る
- ソアラは静かに地上に降りた
1. 新記録への挑戦のための準備
日本の植民地下で韓国人として技量を生かして成功するということは極めて難しいことだった。そんな中でも私は飛行機免許と滑降士免許がもらえたので、この分野の頂上に向かっていかねばならないという気持ちになった。
一等飛行士になるためにはこれからもう 100 時間を飛行しなければならない。しかし一等飛行士の免許をとったとしても、その次に旅客機の操縦士になるには障害があった。日本人以外は旅客機の操縦士にはなれないのであった。そのような免許は被植民地の民族である私には役に立たないものであった。後でこのような事実を知ってからの私の失望感は大きかった。
今まで私は 1 等飛行士になるためにどれだけ努力しただろうか・・その夢を叶うために油まみれの作業着でさんざん汗をかきながら整備士に務め、夜にも寝られずに読書に励み、また合間を縫って練習飛行の場に駆けつけて 2 等飛行士の免許までは取れたのだ・・
東京へ講習に行ったとき、銀座にある航空専門デパートによったことがある。そこには西洋諸国から集めてきた、高級な飛行服や帽子、そしてゴーグルなどが陳列されていた。しかし、とても高くて買えず、アメリカ製の飛行用メガネだけを買ってきた。また日本海軍航空隊からはアルミふちのメガネをもらったりもした。これ等はすべて 1 等飛行士になった日のために用意したものだった。そうした夢が折れたので私は他の道を探すしかなかった。それは普段から決めていたグライダーで日本人を驚かせようとのことだった。
空を飛ぶのを諦めるわけにはいかないし、いつまでも日本人の下で働きながら練習用飛行機ばっかり乗るもの気に食わないことだった。
グライダーで世界新記録を立てよ!
この新しい挑戦のために準備をし始めた。まず冬の季節風を知るために、 12 月と 1 月の気象に関する研究と体力を鍛えるための実験が必要だった。次には性能の良いグライダーを買わなければいけないが、私にはそのようなお金がなかった。それで自分の信用や努力する姿を見せ、団体または会社から乗せてもらえるように計画を立てた。私は余所見しないで一筋の道を歩んで行く。
冬場になると部屋の外に設置した風力計が回っている。強い北風で慌しく回っているそれを見ながら私の心は膨らんでいた。何日間にかけて持続力を持った風力とその風速を記録しておいた。一日、二日または四日間続く持続力をもった風速の統計を知るためだった。
大阪気象台で発行する全国の気象図には、主に等圧線の絵や風向または風速などが載っていた。天気予報として毎朝私の部屋にも届いた。 12 月と 1 月には中国大陸から高気圧が発生し、その影響による日本の気象変化が私の研究対象になった。これはこれから私がグライダーの記録を立てるにあたって良い資料になるはずだったからだ。
トップに戻る ↑2. 滞空訓練のための持久力の培養
日曜日は決まってグライダー練習場に行った。「金岡」グライダークラブには熱心な会員も多かったが、適当な会員もいた。しかし、真面目な会員同士では気が合い、「大西」会長と「やまと」指導員のもとで一心不乱に動いた。
一方で私は体力を鍛えるための研究もした。長く乗っているためには忍耐心が強くなければならない。それで私は故郷のソウルに行く度にこの訓練の心構えをしていた。空中で長時間我慢する訓練はまず、大阪から下関まで行く電車の中から始まる。つまり持久力を高めるための訓練だ。この区間は急行で 8 時間もかかる。ところどころ大きい駅にだけ停まる列車だが、私はもっと時間のかかる各駅停車の列車に乗った。
各駅停車の列車は、すべての駅に停まるだけではなく、貨物作業もありもっと多く時間がかかり、貨物車両と一般車両を繋ぐ時大きな衝撃が伝わるため、時々乗客を驚かせた。このような衝撃に耐える訓練はわたしにとってもってこいの環境で、私はわざわざ一番最後の車両を選んだ。
座席もなるべく硬く座り心地の悪いのを選んだ。いくつかの週刊誌や小説そしてハンカチが私のそばにおいてあるだけだった。念のためにお湯を入れるビンを用意し、ポケットにはキャラメルを入れてあった。
グライダーに乗ったときを想定し私なりの制約を決めていた。腹が減っても食べ物をたべてはいけない、喉が渇いてもやたらに水を飲んではいけない、足を伸ばしてもだめで、立ってもだめだった。ずっと居座るのであった。
列車に乗る前日はろくに食べてもいなかった。食欲に耐えるためだった。列車が出発する直前トイレに行き、終点に着くまではいかなかった。キャラメルを口に入れて口の中で転がしながら、山奥地で修行をしているお坊さんのつもりでいたのだ。私が座っていた車両には、沢山の人々が乗ったり降りたりしていた。もし私のことをずっと観察できる人がいたなら普通の人として思って居られるだろうか。とにかくこうしているうちに 14 時間という長い時間、下関に着くと肩はもちろん全身が凝ってしまう。席から立って歩こうにも歩けない麻痺状態になるのだ。
しかしこの試練で私は合格したことになる。そしてこの訓練は一回では終わらない。次に釜山からソウルに行く列車の中でも同じ試験を繰り返さなければならない。このような訓練を数え切れないほど多く繰り返しながら、栄光の日に備えてきたのだった。
トップに戻る ↑3. グライダーに狂った朝鮮人の馬鹿
私はグライダーで成功しようと訓練に励んでいたけど、この間にもひとつの悩みがあった。それはお父さんから早く結婚しろとの催促のためだった。25歳、当時としては遅い方だった。他の人の中には、結婚ができて何人の子供まで持っていたり、一家の家長としてしっかりしている人もいるが、私はまだ成功への道も遠く、第一家族を養う自信がなかった。
結婚についてはもう少し考えたいと言ったけど、新聞記者の兄が大阪まで説得に来たので、結局結婚して親孝行でもしようと思った。新婦は海川生まれの元容淑だった。結婚式の日に初めて新婦の顔を見るようになった。小柄の人である日本風の旅館で3日間の新婚生活を送ってから逃げるかのように日本へ渡った。新婦も実家の海川へ帰ったけど、とにかく結婚はしているから、親は安心しているようだった。
1940年の早春、私は日本航空輸送研究所の「さかい」工場を離れた。あと1年さえいたら1等飛行士の免状がもらえると思っていたけど、朝鮮人だから旅客機のパイロットや飛行学校の教官にならない限り、免状をもらうのは難しいからだ。といっても方法が全然ないわけではなかった。日本人として帰化し日本国籍を取れば問題は簡単に解決できる。しかし私はそうするわけにはいかなかった。私には祖先から受け継いだ血の流れは魂がある。このような大切なものを一時的な一時的な営利のために他所の国へ売るわけにはいくまい。当然彼らと堂々と戦い民族の優秀性を見せるべきだ。
私は自分の本来の志を貫くために、直ちに「みずの」グライダー製作所に移った。そこで職員として働き始めたのだ。2等飛行士の免状と2等滑降士の免状を持っている私を製作所では大いに歓迎してくれた。安い給料で新しく製作したグライダーの試運転までできるからだった。
しかし自分にとっても魅力的なところが1つあった。それは「みずの301号」という比較的性能のいいグライダーで、これにさえ乗れば世界記録に挑戦することは難しくないと思った。このような狙いを達成するためには、なによりも会社からの信頼を受けることが必要だった。それで私は黙々と仕事だけに専念した。「さかい」工場や飛行学校の職員たちは、こんな私のことを馬鹿と呼んでいたらしかった。
飛行機に乗ればいいのに、子供のおもちゃのようなグライダーに夢中になっているのもそうだし、1等飛行士の免状を目の前にして、3年間も働いた工場を出てつまらないグライダー工場に行くのもそうだ。しかも一作業員として行くというからには、みんなが馬鹿というのも無理ではなかった。
しかし私の頭の中には、グライダーの滞空記録、日本人の9時間57分とドイツ人が作った世界新記録36時間だけで一杯だった。この中で日本の記録には興味がなく、自分としては世界記録を破るという強い執念でいっぱいだった。馬鹿といわれたこの朝鮮人がどのような馬鹿だったのかみせてやる!
トップに戻る ↑4. 飛行少年団のグライダー指導教官として
グライダー記録を更新するためには、まずは色んな人の協力が必要だ。人力で空高くまだ飛ばなければならない。グライダーの運搬、分解、組み立て、互いに連絡することなど各分野の人たちの力が必要だった。このすべてのものが揃ってから初めて成功の実を結ぶのだった。
それで私は前もって色んな人と良い付き合いをしておこうと思った。特に工場の作業員やグライダーを勉強している学生たちは、このような雰囲気作りの原動力になる欠かせない人だった。日曜日には大阪の北にある淀川の川辺に行く。そこには「日本飛行少年団」というグライダーの練習団体があり、初級期の訓練場として使っていた。私はこの団体の指導教官としてボランティアをやっていた。訓練生の大半は大阪市内の中学生で、広い川の底が乾いて砂浜になった所で、グライダーの訓練をやっていたのだ。
この団体の指南役は、「きょうやさかえ」という35歳の幹部だったが、背が低く洗練された事務員タイプの紳士だった。もう一人は「やました」という現役大佐を引退した人で、市内の中学校に配属された将校だった。腰には刀をかけ、ひげを伸ばし、一見老兵を連想させるが、心優しく情け深い人だった。飛行少年団の東京本部長は、梨本宮殿下が就任していた。李氏王朝の直系である「李垠」殿下の姑でもあった。そして大阪本部長には「つるみじゅんしろう」という陸軍退役少将が就任していた。
飛行少年団は、さかい水上飛行学校とはどんな関係があるかは分からないけど、飛行学校にある13式の水上練習機1台に少年団のマークが付いていた。これを見ると少年団が水上練習機1台を持っていることは確かだった。
日本の国内情勢は、ますます戦時体制になっていき、航空産業発展の土台を飛行少年団から固めるといった意志が見えた。
トップに戻る ↑5. グライダー製作会社の工場の人たち
私が通った「みずの」グライダー製作会社の工場は、大阪と神戸の間に位置している「あまがさき」市にあったが電車が通る工場町だった。映画館、ビリヤード、囲碁、喫茶店、カフェ、などもあり隣にある大都市まで行かなくても大体の遊びはできる町だった。
週末になるとグライダーの指導のために飛行少年団の練習場に行くときは電車で行くんだけど、電車の運転手は男から女へ変わっていった。男は軍隊へ行かれその場を女が入れ替わるようになったのだ。電車だけではなくどの職場も同じだった。
私の工場には「がんじ」という少年作業員がいて、大工の助手役だったがまじめで私によく懐いてきた。夜間の中学校に通っていたが、飛行機について私にたくさんの質問をした。この少年の紹介で私は生まれて始めて下宿をするようになった。下宿の2階にある私の部屋のドアをすべて開くと、市街の一部が下に見えて、時々大きな飛行艇が低い高度で大きな音を出しながら過ぎていく。そんなときは窓が震えた。ここからそれほど遠くない「川西」工場から飛んでくるからだ。
毎朝私は下宿から遠くないグライダー工場へ出社していた。工場の作業員はほとんどが大工で構成され、40人ほどいた。女作業員もいた。女作業員は主にグライダーの羽に張る布を作る仕事をしていて、ほかの雑務もやっていた。
また工場には「いわさき」という人事管理を担当している事務主任がいた。最初の面接のときから私に親切で、太いふちの眼鏡をかけた夜間大学生だった。自分の会社に初めてパイロットが入ったのがうれしかったのか親切で、急用のお金が必要な時は前仮もしてくれた。
グライダーの作業員は、年齢に関係なく私に親切だった。仕事熱心な私に同情しているかのようにも見えた。大工の仕事が下手な私が、彼らから指導されるべきだったが、まるで私の助手でもあるように私の仕事を手伝ってくれたのだ。
パイロットの私が自分たちを一緒に働いているのを自慢に思っていたらしく、私が飛行機でグライダーを予航する日を待っている模様だった。この会社で末永く一緒に働きたいと思っているようすで、私のことを友達として考えているようだった。私はこのような皆と一緒にいられたのを嬉しく思い、手につく仕事ごとに嬉しく働けた。
この工場には私のほかに「よしかわせいいち」という1等滑降士がいた。私と同じくらいの年齢で、グライダーのテスト滑降士をしながら従業員の仕事も手伝っていた。彼が今年(1940年)1月19日、グライダー滞空時間9時間57分30秒の日本新記録を作った張本人だった。この記録は昨年、東洋金属木工株式会社の「おだいさむ」が作った9時間33分より24分30秒長い今年の新記録だった。
よしかわが記録を立てた「みずの301号」というクリーム色のグライダーは、今支配人室の片隅に分解された形である。よしかわは小柄で、静かな性格で、そのため謙そんしている印象だった。私とはとても親しくしていたが、ある日突然軍隊の召集令状をうけてしまった。彼の去る日、彼はあんまり動揺もしていない感じで、荷造りをしてから工場の人に挨拶に回った。彼は私にも来た。「長い間お世話になりました。軍務を終えたらまた戻ってきます。」
その後工場には岡山出身の「常国隆」という2等滑降士が入ってきた。この人も私と同じくらいの歳だったが、ため口を聞いたり横柄にも見えた。同じ工場で同じ仕事をやっていたけど、私は私の仕事だけに専念した。
トップに戻る ↑6. 世界記録に向かって
時々道を歩いていて、ミズノ本社である運動用具デパートに寄ったりする。女店員も親切でお茶をくれたりした。時々和菓子を出す時もあった。ある休日にはハイキングに誘われたこともあった。しかし日曜日はグライダーの指導にいかなければならないので断るしかなかった。
ミズノ運動具会社は創設してから歴史が長く各種の運動用具を生産したが、その工場の中にグライダー製作所を兼ねて新しく建てたのだった。運動用具としては主にスキー用品が多く、高圧水蒸気のボイラーを使用していた。ゴルフ用品や野球用品もこの工場で生産した。ミズノ社長は設けには能力があるらしく、また工場の片隅でスプーンやフォークをも作り始めた。輸出用の製品だったらしい。販売価格を安くしているので商売にはなりそうだった。ミズノ社長の地味な紳士用帽子にスーツ姿は少し似合わないおじいさんだった。顔色が黒く、背も低かったが、時々工場の従業員の働きぶりを見回っていた。社長の行くところにはいつも「うめずしんたろう」という支配人が付いていた。細長い体にインテリな風格は貫禄を感じさせていた。35歳くらいの二枚目の男で早稲田出身だそうだった。しゃべり方も紳士で、私にも時々声をかけてくれたけど、これから飛行機も買う予定だから待っていなさいとも言った。飛行機を買うことになるとグライダーテストをするようになるし、そうなったら飛行機の操縦を私に任せると言ってくれたのだ。私にとってはありがたい言葉だった。
トップに戻る ↑7. 1級滑降士の資格を取って
1940年7月25日から日本飛行少年団大阪本部主催で開かれる2級滑降士養成合宿訓練の講習が8月18日までの23日間あったけど、私は助教兼機材係長として参加するようになった。場所は「いこま山」の東に見える「盾津」飛行場だった。
訓練を受ける学生は26人、その中には性格の活発な女子高校生も3人がいた。指南役のうちだ団長をはじめ、東京から教官要員として1等飛行士兼1級滑降士である「しま」主任教官が3式陸上練習機をもってきた。助教としては「こじま」2級滑降士をはじめとする6人だった。みんな2級滑降士の免状をもっていた。
助教の中に「まつだいらかずこ」という22歳の唯一の女性がいた。かよわい体格で可愛いお嬢さんだった。彼女は1級滑降士に必要な「ソアラ」グライダーを飛行機で予航する練習をするために今回の合宿訓練に助教として参加していたが、これは私の目的と一致していた。
今回の講習会に学生達を一生懸命に指導してくれた助教には、別途の飛行機で「ソアラ」を予航する練習ができるチャンスが与えられることになっていた。1級滑降士に必要な技術習得のチャンスなのだ。
「しま」主任教官は、私とかずこさんに時々飛行機の操縦もさせ、「ソアラ」を飛行機で引っ張る練習もさせてくれた。この時彼女は、飛行機や「ソアラ」を丁寧に運転していると褒められたりしていた。もちろん他の助教たちも同じだった。
300mから800mまでの高度で飛行機が予航してくれるワイヤから離脱したあと、左右旋回の動作で最初の出発点まで戻り、指定の場所に着陸する科目だった。飛行機で引っ張ってくれるワイヤは120mのものを使っていた。
ここで使う「ソアラ」は、「げんうん1型」というグライダーで、色あせた古いものだった。1934年頃日本で初めて作ったもので、その性能はいまひとつだった。それで今回の講習のあとは廃棄処分されるといった。機体のすべての部分が古く、その強度が弱いからだった。今回の練習の課目も旋回動作のみの滑降に限られていた。
今回の講習で人気を集めた3人がいた。「こじま」助教は達者な口でみんなを笑わせ、「かずこ」は大人しくおしとやかな品格が受けられ、私は韓国人という変わった国籍と真面目だったからだった。
破損された機体の修理のために、私は休むひまもなく走り回ったが、材料はベニヤ板がよくつかわれた。ベニヤ板のことをベニタと短くよんでいたら、みんなからベニタさんというあだ名を付けられてしまった。
私は毎日助教たちと一緒に「ソアラ」の練習をした。講習も中半を超えたころ、私はいつもと同じ科目だけでは満足できなくなった。このチャンスで今まで以上の技術を学んでおかなければならないと思った。この他にチャンスはないと思ったからだ。
高度800mで滑降操作だけをやるというのはあまりにももったいない。私は機体をツイストさせるループを2回ほどやってみた。主任教官や助教たちは、地上に降りてきた私にすばらしいと褒めてくれた。次回にもループを決めていたが、1回のループで30mの高度損失があることが分かった。ループの世界記録を建てるためには、1回のループでなくなる高度を最小限にして設計したグライダーじゃなければできないという感じがした。ループの世界記録は1度に180回以上との話があったが、この時の自分の記録は8回だった。
次はスピンドル、左または右に旋回しながら下へ垂直に落ちる技だった。かなりの胆力が必要な技で、日本海軍航空隊で使われる操縦教本を見て独学したものだった。対外秘になっていて一般には公開されていない本だった。
当時の民間飛行機は、殆どが古く、日本軍か廃棄したものを整備して使っていた。それで特殊飛行ができるのは1台もなく、すべてが使用制限が付いたものばかりだった。ところが私はグライダーでは初めてでアクロバットを決められ、そこで大胆性を養った私は、万が一に空中分解されたとしても、機体を両足で強く蹴り、パラシュートで降下できる自信があった。
「げんうん1型機」の「ソアラ」は操縦席がとてもせまい。大柄の私が小さいグライダーをかっこよく操縦できるのがすばらしいと皆驚いていた。さらにパラシュートをかけて席に座ると、せまくて足を動かすこともできない。それでシートを取り外し、そこにパラシュートを敷いて座っていた。それでも狭いのに変わりはなかった。結局靴まで脱いで素足で操縦をした。
講習は大きな成功をあげて終わった。2級滑降士の免状をもらうようになった26人の少年航空団員たち、そして東京から来た助教たちの間で、大阪出身としては唯一の私が1級滑降士の資格をもらうようになった。
トップに戻る ↑8. 世界記録挑戦者の候補者になる
ミズノ工場ではそのあいだ二つの変化が起きた。ひとつは「黄ぼんそん」というプサン出身の韓国人の大工さんが新しく入ってきたのと、もうひとつは、日本海軍から3台の対空砲の標的物を下請けされ製作することだった。
黄氏は、私と同じくらいの歳で、子息をもった家長だといった。日本見物を兼ねてひとりで渡ってきたと言い、性格が明るく気前もよかった。お酒が好きで、職場の日本人にお酒をおごることもよくあった。寮生活をしながら私の部屋にもよく遊びにきた。声が大きく豪快なところが気に入ってすぐに仲良くなった。
工場に下請けされた対空砲の標的物は無人飛行機だ。グライダーの3分の2の大きさで木で作るのだ。機体の表面は 0.5mm の航空用ベニヤ板で型をとり、その上に在来の塗装をするが、これは他の技術者がきてやった。
標的として使われる飛行機は、無線で操縦するが、その装置はハンドルを左右にだけ動かせるようになっていた。私たちの仕事はエンジンを載せるスペースだけを例外に、機体を作る作業だった。仕事が多く夜の仕事も増えたので収入も増えた。こんなとき「うめず」支配人がたびたび現れたのだが、私はチャンスがあるたびに彼に近づいた。あとのことを考えて彼と親しくなっておく必要があるからだった。
秋になった。近いうちに西北風が吹いてくるだろう。
支配人と私の間ではいつも同じ話題で熱くなっていた。支配人室においてある「みずの301号」という「ソアラ」を私が乗り、それで世界新記録を建ててみようとの計画だった。
当時の世界新記録はドイツの50時間で、日本は10時間にもなっていなかった。この会社の「よしかわ」という人がもっている記録だった。しかし彼は1ヶ月前に軍隊からの召集状をもらい出て行った。彼の記録はあまりにも短く、だれでも破ることができると思い、その候補者を会社の内部から物色していたが、その適任者として私と「常国隆」という2級滑降士があげられた。しかし支配人は私に期待しているようすだった。結局体力や経歴の優れていた私が指名されたが、これはだれがみても当然の結果だった。日本新記録を立てた「よしかわ」は、着陸後機体から自力で出られなく、同僚たちの手助けがあり、「つねぐに」も体力が弱かったため不安があったからだ。
日本でグライダーの記録を立てる時期は、みんな約束でもしたかのように12月と1月の間になされるのが一般的だった。新聞社の航空部やグライダー制作会社に所属されている滑降士たちが色んな種類のグライダーを持ってきて日本記録に挑戦する季節なのだ。滞空時間記録にふさわしい場所としてはいつも「いこま山」が指定されていた。数年間実施してきた記録樹立の歴史もあるし、季節的に一番適しているからだ。
もうすぐ機能の優秀なミズノのグライダー301号「ソアラ」で、私が空を飛び世界記録に挑戦するようになると思うと、興奮の抑えようがなかった。
トップに戻る ↑9. 記録に挑戦する競争者たち
私がグライダーに乗るようになるとの噂は、工場の人たちはもちろん、本社の大阪の淀橋デパートまで広がった。特に工場で一緒に働いている黄氏がだれよりも喜んでくれた。日本人の従業員たちもミズノの代表として参加するようになった私を励ましてくれた。これで残ったのは支配人の最終的な決定のみだ。彼の始発信号さえおりたら私は空を飛ぶことになるのだ。このような雰囲気の中で12月に入ると、あっちこっちからグライダーの競争者たちがくるようになった。「ふくだ」軽飛行機制作会社からは「おだいさむ」という1級滑降士と「あきもと」滑降士が一緒に出てきた。その会社は1台ずつグライダーを出して出場させたのだ。例年なら1つの会社で一人を出すのが普通だが、このように二人を同時にだしたのは、それくらい自分の会社の面子をたてたいからだった。このような競争心から航空界の発展ができるのだが、ミズノ側は緊張するしかなかった。ミズノが立てた日本記録が敗れてしまうかもしれないからだ。
いよいよ「ふくだ」会社の二人の滑降士がいこま山頂から飛び立ったというニュースがラジオの電波に乗って聞こえてきた。彼らは山頂の高さを維持しながら記録に挑戦し続けているとアナウンサーの声は興奮気味だった。
ラジオでは定期的にこのニュースを流していた。ミズノ工場の人たちもみんなラジオに耳を傾けていて仕事にならない状況だった。「こうしているうちに日本記録がやぶれたら?」若い従業員たちは不満を言い始めた。「うちの会社は何で先にやらなかったんだ」、「うちが先手を打ってたらあんなことはないのに・・」、「うちには金さんがいるからいくらでも更新できるのに・・・」、「支配人が怠け者でこんなことになるんだ」
こんな中でラジオでは、現在2台のグライダーが依然として空を飛んでいて、あと5時間続けると日本記録が更新できると騒いでいた。もしかしたら2台ともに日本記録をたてるかもしれないとも言っていた。私はいても立ってもいられない心境だった。競争者への嫉妬より、今まで努力してきた自分の野心と競争会社への闘争心で燃えていたからだ。この時のために周りの人から馬鹿と言われながらももくもくと訓練だけに専念してきたじゃないか!支配人はいったい何をやっているんだ!
その時、「うめず」支配人が緊張した顔で工場にはいってきた。支配人から呼ばれて事務所にはいると、「おい、会社の記録があぶない、君、今から山に行く準備をしてくれ!」私にグライダーに乗って記録に挑戦しろと言っていた。私は跳ね上がるほど嬉しかった。支配人は続けていった。優秀な人を選んでここにある301号の「ソアラ」を用意するように・・そして必要な経費は、会計担当の「いわさき」に言っておいたからかまわず使うようにと。
ちょっと遅い感じがないわけじゃないが、私の胸は躍っていた。一方ではこれよりももっとすごい記録をめざしているのにこれくらいで興奮してはいけないと自分を抑えていた。
ミズノ301号の「ソアラ」は支配人室から連れ出され、従業員たちが手入れをし始めた。従業員たちはみんな喜んで手を貸してくれた。その中で「つねぐに」滑降士も私の成功を祈ってくれた。彼とは今までライバルと言える関係だった。しかし会社の名誉を守るために彼は私を励ましてくれた。
ウメズ支配人は机の前で事務をこなしているかのように見えたけど、内心ではニュースが気になってしょうがなかったみたいだ。今も壁にかけられているラジオのニュースを気にしているようすだった。従業員だちがみんなでグライダーの手入れをしている間にも時間は過ぎていった。6時間、7時間、8時間・・・そしてもう9時間。新しい記録ができる時間なのになぜかラジオではなんのニュースも聞こえてこなかった。「ソアラ」の手入れもほぼ終わり、明日は「いこま」山頂に運ぶことができるくらいだ。
私は大阪気象台予報課に電話をかけ、現在の気象状態や気圧の配置状況、そして明日の天気について聞いた。飛行に適した気象状態を見計らって日にちを決めなければならないからだ。このように随時気象台との連絡を取り合いながら、気象図を広げて翌日の気象を予想していた。2台のグライダーは、今頃もう記録更新ができてまだ空に浮いていると思いながらラジオに耳を傾けていた。しばらく沈黙していたラジオニュースが再開した。しかし期待をよそに、2台のグライダーは新記録更新を何分か前にして不時着したそうだった。ミズノ工場の空気はむなしさの傍ら安心の息も聞こえてきた。顔色の暗かった支配人の顔も一瞬明るくなってきた。その時支配人は私を呼び出した。「今日はご苦労さんだった。301号の記録更新計画は一時保留にしましょう」この言葉に私は全身から力が抜けてしまいそうになった。
「支配人!10時間という記録はいつかはかならず破られます。ここで安心しないで、計画通りにやりましょう。うちの会社の記録をどんどん増やすことこそ競争会社からの追跡を追い払う最善の方法ではありませんか!」私は支配人に強くうったえたが、支配人は冷淡だった。「君の意見には同感だ、やめるのではなくもう少し状況を見てからにしよう」
私は泣きたい気持ちだった。しかし、一作業員として、そして彼の支持をうける者としてこれ以上うったえるのも無理だったので我慢するしかなかった。301号の手入れしていた人たちは一瞬にして作業をとめた。いいチャンスだったのに・・と従業員たちも支配人を見る視線がやさしくはなかった。そして夜間作業も中止になった。
「金さん、また今度チャンスが来るはずさ、かならず成功できる日がくるから、元気だしなさい」従業員たちはみんな私を慰めてくれた。しかし私は見えないところで流れる涙をこぶしで拭いていた。
トップに戻る ↑10. 免状を回収され
同僚たちの励ましにもかかわらず私は当分の間元気かなかった。こんな日が続いていたある日、東京航空局から1通の手紙が下宿に届いた。その内容は、私の2等飛行士の免状と2級滑降士の免状を回収するとの通告文だった。回収の理由は、8月に行われた合宿訓練で、使用制限の付いた飛行機で危険なアクロバットをしたからだった。教官の支持もなかったのに単独でやったのは違法にあたる。したがって航空界の秩序を守るために処罰するとのことだった。管轄の役所の命令なので拒否することはできなく、私は潔く2つの免状を返すことにした。そして免状を封筒に入れて郵送してしまった。しかしこのような場合、ある程度時間がたったら返してくれるのが普通だからそれほど心配はしていなかった。
しかし、時間がたっても東京航空局からは何の連絡もなかった。ふとこれとない不安感を感じ始めた。もしかしたら意図的かもしれない。それで直接東京航空局に直接いったほうがいいと思った。免状の返還日を確認するつもりだった。
東京航空局は郵政省の建物の中にあった。長い廊下を歩き突き当たりのところに村田しょうぞうという名札がついていた。私がそこに着いた時、ちょうどドアが開いて韓国人のしん・よんうくが部屋から出てきた。彼はソウルの朝鮮航空事業社の社長だ。
私は郵政省航空局の航空官にあった。私の2等飛行士の試験の時に監督官として大阪に出張できていたその時の「さだ」航空官だった。彼は面識のある私を親切に迎えてくれた。私の話を聞いては、個人的には理解するが、公的な行政処分だから仕方がないとの説明だった。さらに免状回収の期間がいつまでか、そして永久回収なのかそれとも一時回収なのかすら分からないと言われた。がっかりしてかえるしかなかった。ところがここまで来たついでに郵政大臣に相談したいと思った。大臣だからといって警護員がいるのでもなく、私の面会要請にすんなりと OK してくれた。私はここに来た理由を簡単に説明した。「あ、そうですか?でも元気な青年がそんなことで落胆してはいきませんよ。もう少し遠い将来のことを考えながら待って見ましょう。必ず成功できるでしょう。とにかく私に会いにきてくれてありがとう」大体このような会話をした。とにかく私としては自分の存在を知らせただけで満足するしかなかった。
トップに戻る ↑11. 「いこま山」は今日もこの胸に
私は免状を回収されたことについて誰にも言わなかった。自慢できることでもないからだった。私は依然としてミズノ工場でグライダーを作る仕事だけで時間をすごしていた。しかし頭の中ではずっとはなれないことがあった。免状のことは持っていたところで何もできなくては持っていないのと一緒だからどうでもよかった。それより私には他人が持っていない技術がある。それをみんなに披露したほうがいいじゃないか?これについては前からずっと考えていたので、いつでも方向さえ決めればいいことだった。そのためにはなんとかして自分の飛行機である「ソアラ」を用意することが先だった。今度の記録シーズンを逃したらまたのチャンスはなさそうに思えた。何とかしてでも世界新記録を立てて人々を驚かせよう。万が一失敗して命をなくしたとしても男として自分のやりたいことをやったんだからいいじゃないか。死ぬことを恐れてはいけない。つまらない人生を生き続けるより価値のある死を選ぶ!
グライダーを飛ばす「いこま山」は海抜642mの高い山だ。山の西は急斜面を成し、東側はぬるい斜面だった。それで東側の丘にはケーブルカーが2台動いている。その中間の所には「いこままち」という小さな町があり、山頂には航空用灯台があった。付近には一戸建ての大きいホテルがあり道場を兼ねていた。灯台の隣にある空き地は、グライダーの利陸地として使われていた。
12月と1月は、西から吹いてくる強い季節風が押し寄せてくる。この風は西の斜面にぶつかり上昇気流に変化しグライダーを飛ばすには絶好の条件だった。だから滞空時間を争う若い滑降士たちが来ては記録争うをするわけだ。上昇気流は普通山の高さの4倍にいたる。
数年間の統計で見ると、「いこま山」で発生する上昇気流の持続時間は大体9時間前後に見える。そこで滞空新記録に挑戦する滑降士たちもこれ以上の時間更新ができなかったと思う。この間の「ふくだ」軽飛行機製作所から来た滑降士もそうだった。
ところが今回もまた、あの二人の滑降士が新記録への挑戦に挑んだ。このあいだの失敗を挽回するつもりだろう。前回は12月で、今回は年が変わり1月だ。今度こそ新記録を変えるとの強い意志で挑戦しているのに、いったい俺は何をしているんだ?支配人室においてあるグライダーを見ながら悔しい思いをするしかなかった。
トップに戻る ↑12. またもや挫折の恨を抱く
1941年1月、グライダーの滞空記録に挑む若き二人「おだ」と「あきもと」が順調にいこま山の上空を飛んでいるとのニュースが工場のラジオから流れてきた。工場の人たちは一瞬緊張していて、「うめず」支配人もこの前のように朝から憂鬱な表情だった。
「今回は日本新記録更新は間違いなさそうです。コンディション好調のグライダーがただいま上空を飛行しています。2台の「ソアラ」が自信満々な姿で高く飛んでいます」アナウンサーはこのようなコメントとともに、昨年のミズノ会社の日本新記録についても説明を加えた。こんどこそ成功できるのだろうか?アナウンサーの声はあまりにも冷静で、本当に更新できそうな雰囲気だった。こんな予感がしたからか「うめず」支配人はいらいらしていた。手を合わせてはこすったり、瞑想にでも浸かっているようにじっと目を閉じていたりした。そうしているうちに急に私を呼んだ。彼の後をついて事務所に入ると彼が言った。「やっぱりだめだ。このあいだのことはもうしわけなかったけど、どうだ?今回こそ出て行ってくれないか?」本当に申し訳ない口調で言っていた。「君しかいないさ、わが会社の名誉のためにもぜひ頼む」私は過去のことを忘れることにした。ここまでお願いするんだから、また気が変わったりはするまい。私は新たな勇気が沸いてきた。今にも踊りたい気持ちを抑えながら答えた。「はい、やります」
時間は午後に傾いていた。黄氏をはじめ日本人の同僚たちが手助けに出てきた。「ソアラ301号」の機体を引っ張り出して、点検をし、トラックに載せる準備で急いでいた。グライダーを引っ張ってくれる人員を構成し、工具も用意して、山上のホテルを合宿場所として予約しなければならなかった。長い時間滞空するので非常食料やパラシュートの点検もしなければならない。
航空局に提出する書類は、山上から出発して「盾津」飛行場まで行く練習飛行として用意することにした。免状を奪われたから記録更新のためだとはかけなかったのだ。免状もない朝鮮人が何をするつもりだ!と妨害される恐れもあるからだ。
およそ20人の同僚たちは、明日から「いこま」山上のホテルで合宿をしながら適した気象通報が出るまで待つ体制だ。彼らは今度こそ間違いあるまいと明日の登山準備を急いでいた。夕暮れの頃ラジオから2台の「ソアラ」について報道をしたが、今回もまた前回のように記録更新寸前で気象不良になり不時着をしたといった。二人の滑降士はまた再起の準備をしてから出直すとの言葉を残したが、アナウンサーは同情に満ちた解説で彼らの言い訳をしていた。「よし、これぞ私の出番だ」私は胸をはって深呼吸をした。しかしこの時、ウメズ支配人が現れた。顔に微笑を浮かべているのが何かの自信に満ちた表情だった。
「今回の計画は取り消しましょう。もう安心だ」
自分の耳を疑いたくなるほどだった。なんでああいうことが口から平気で出てこられるのだろう。これは酷い。うそも程がある・・・しかし、一従業員の身分としてどうしようもない。私は振り返って工場にもどった。同僚たちも鬱憤の声をはいていた。しかし私は我慢することにした。
私の怒りは他の方法で解すつもりだ。蒼空への夢を捨てきれずにいる私にとって、そんなことで挫折するわけにはいかない。私の頭にはもはや会社の「ソアラ」301号に対する未練はすべて消すことにした。「ソアラ」301号がいくら性能がよけりゃどうするんだ。それが自分の所有ではない限り何の役にも立たない。問題はそれを操る人間の精神にあるのではないか。見せてやる。
トップに戻る ↑13. 涙まみれの友情で廃棄された機体を再生
一夜のあいだずっと悔しい思いで、さまざまな工夫から寝られなかった私は、夜が明けると少年航空団の大阪へ向かった。事務室にいた「きょうや」主事が私を親切に迎えてくれた。「お久しぶりです。こんな早い時間から何の御用で・・・」私の手を握り、椅子に案内しながらお茶までいれてくれた。「実は相談したいことがあって来ました・・」私は訪問した目的を言った。それは少年飛行団が飛行場として使っている東淀川の川辺にある古い倉庫の中に分解されたまま放置されている「あかしあ 1 型ソアラ」を貸して欲しいとの内容だった。
すでに廃棄処分されたもので他に用途はないはずだから、それを私が再生して使えるものにすると言った。だからといってお金をもらうつもりはなかった。ただその条件で私がそれに乗り生駒山の頂上から盾津飛行場まで滑降する練習をさせてくれと頼んだ。それほど無理な頼みではないはずだった。
「きょうや」主事も計算は速かった。私の条件に損はないはずだし、かえって得があるということを分かったはずだ。一番目は、お金をかけずに「ソアラ」を修理することができ、 2 番目は対外的に「ソアラ」がまだ生きていることを知らせる宣伝にもなり、 3 番目は私に気前を見せることもできるからだ。
「きょうや」主事は即場で受け入れてくれた。そしてそれは私に名を上げるチャンスをくれたことにもなる。私は自分の野心がようやく叶えるとの希望に満ちていた。ソアラを私の手で直せることさえできれば、私は誰に縛られることなく自由に空を飛ぶことができる。私の目の前にはもはや日本新記録なんか問題にならなかった。世界新記録だけが私の目標だったからだ。
私は黄氏と「かすがこういち」という日本人の親友に自分の計画を打ち明けた。二人はこぶしをぎゅっと握りながら、何の心配も要らんと私を励ましてくれた。彼らも協力して簡単に再生させてみせると約束してくれた。「修理にかかる費用は私たちが用意するから心配しないでくれ」彼らの口から私の計画を知らされた同僚たちもみんな賛成してくれた。「金さん、心配要らんよ!私たちが力を合わせて支配人にギャフンと言わせてやろうぜ、私たちの気からでも一致団結すると怖い事なんか一つもないからね」あ、こんなにありがたい事が他にあるだろうか・・私は泣けそうになった。真の同僚愛とは民族や階級を超えて一つになるものだな。さらに私が感激したのは、すべての経費も彼ら各自の懐をたたいてくれるとのことだった。私は胸に手を乗せて神様に感謝した。
さ、作業開始だ。まずトラック 1 台を借りて、分解されたグライダーを「かすがこういち」が住んでいるアパートまで運んだ。アパート 2 階の廊下で修理作業をしなければならない。ところが 2 階の階段では、長い胴体と羽を運ぶ事が到底できない。やむなく 2 階の窓を取り除いて、ワイヤで道から引っ張りあげて入れた。アパートの大家さんのおばさんは、このような騒動が気に食わなかったけど、空を飛ぶグライダーを直すということがすごいと言いながら多めに見てくれた。
私に協力してくれている人たちの殆どは家族を持った家長だ。アパートに住んでいて、昼間は工場で働き、仕事が終わってから皆あつまって私が乗るソアラの修理作業をしてくれるのだ。胴体を担当している人、羽を担当している人、このように各自疲れを忘れて汗をかいていた。毎晩 2 階の廊下では釘を打つハンマーの音、木を切るのこぎりの音などで煩かった。
そして皆約束でもしたかのように、退社の時には木や布などをそれぞれ隠して持ってきた。必要な材料を調達するためにあらゆる手を使っているのだ。貧しい懐の事情ではすべての材料を買う事はできなかったからだ。このようにして 2 週間あまり作業を続けたら、廃棄物のソアラも新品のように様変わりした。薄い水色で誰がみても廃棄物を再生したとは思えないくれい綺麗だった。
胴体には日本飛行少年団のマークと航空婦人会という文字を書き入れた。これらの団体は私の後援者であり、私をグライダーに乗せてくれたありがたい集団でもあったからだ。グライダーの再生作業が終わった日、我ら皆は感無量な気分になり、私はこの美しい友情に答えられる日を胸を躍らせながら待っていた。
トップに戻る ↑14. ライバルの出現で緊張
グライダーの手入れが終わったからといって、すぐにでも出場できるわけではなかった。これにはまた色んな手続きが残っているのだ。まずグライダーを以前の場所に戻さなければならない。航空官の目の前でテスト滑降をして見せなければならないからだ。でかい機体を東淀川の川辺まで運搬するにも同僚たちが手伝ってくれた。テスト滑降の日、大阪試験所の木下試験管が来たけど結果は合格だった。合格証明書をもらっている現場を見守っていた飛行少年団の「きょうや」主事も喜んでくれた。「よかったね、必ず成功してください」お人好しの顔で微笑んでくれたのだ。私は感無量でありがたいとの言葉しか言えなかった。
その次には、生駒山頂までソアラを運ばなければいけないが、多くの人数が山の中で気象条件が良くなるまで数日間もまずのは無理だった。何よりも費用が高くつくからだった。それで動員された人たちを各自の宿所から待機してもらって、時期になったら電話で連絡することにした。私は大阪気象台の予報課に随時電話し、大陸性気圧配置の移動状況を把握していた。
航空局大阪出張所には 1941 年 1 月の 1 ヶ月間、「生駒山上出発―盾津飛行場着陸」で耐寒訓練をするという名目でグライダーの練習飛行計画書を提出していた。このように着々と進めていたら、これに気づいたウメズ支配人は私の行動をひこかに探索しはじめた。私が単独で世界記録に挑戦するとの情報が入ったのか、彼はすぐに私に対抗する手を打った。
結局彼は、私に対抗する相手として常国隆という 2 級滑降士を選んだ。常国はミズノ 301 号のソアラに乗って出るだろう。言うまでもなくそれは性能の優秀なグライダーで、私の搭乗機と比べ物にはならなかった。私が出ることによって、思ってもみなかった常国が出るようになったので、彼は運が良い男だった。きっと彼は名誉たる勇士として会社から大きな応援を得ながら出てくるようになっのだ。
「よし、正々堂々と戦うのだ。会社の後押しをうけて出場する常国に私が勝った時、支配人は何と言ってくるのか見て見よう」私は闘志に燃えていた。私のグライダーは相手のものより性能は比べようがないが、皆の友情が込められているからな・・
同じ会社の人間同士で出場するから、応援する従業員も半分ずつ分かれた。私に協力する人たちは各自のお金で、お握りを持ってきての応援をしていた。相手の協力者たちは会社から手当てをもらいながら応援していた。しかし、私はどれだけの幸運児なのか、弱者を助ける友達の義理や人情が架け替えのない高貴なことであることを教えてくれた。だから決して今回の対決で負けるわけには行かないという気持ちが強くなった。熱い何かが胸からこみ上げてきて、私は同僚立ちが出場準備しているのを感無量な気持ちで見ていた。
トップに戻る ↑15. ついに世界記録へ挑戦
あれこれ付けたばかりの粗末な装置
出場するまでの準備作業は忙しかった。私が乗るソアラに必要な装置を付けなければならないし、飛行中に必要な備品も揃えなければならなかった。「あかしあ 1 型ソアラ」は、この間の夏に私の技を見せてくれたために褒められてはいたが、その反面処罰をうけることにもなった。なので私には愛情を感じさせ、さらに機体に対しても慣れていたとも言える。
胴体の中は狭く、しかも私は体格が大きく長身だから最初から靴を脱いで乗らなければならない。それから足首だけを動かして操縦するのだった。パラシュートを下に敷いてから座ると、頭が外に出てしまうからパラシュートは持ち込まない事にした。しかし長時間の飛行のためには備品は持っていくしかない。
飛行中に機内に入る冷たい風を防ぐための防風窓が必要だったが、これはれセロパンをハサミで切り、機体の前の方から上部までノリで付けた。当時は今のように強いプラスチックのない時代だった。頭の左右にある壁には手の平の大きさで丸い穴をあけて換気に使えるようにした。
グライダーは何よりも計器が必要だが、私のグライダーには何一つも付いてなかった。計器版のところには穴が数箇所あいているだけだった。計器は民間ではなかなか手にはいらないものだったからだ。
羅針盤、高度計、左右傾斜計などをどこで入手できるのか?ふと境飛行学校の教務室の陳列棚の中にそのようなものが入っているのを思い出した。私はその学校の「なかまさお」主任教授をたずねた。私の用件を聞いた彼は、それらは教材として使われただけで正確性については分からない、しかし必要なら試しで使っていいと言ってくれた。こんな形でも貸してくれたからありがたい限りだった。
羅針盤は飛行機用なので大きすぎで重かった。速度計も一緒で使えようがなかった。結局左右傾斜計と磁気高度計だけを借りてきた。磁気高度計は木の箱で作った枕のようなもので、フランス製だったけど教材としてのみ使われたものだった。ゼンマイ時計に高度計を組み合わせたもので、グラフ用紙が巻かれていて、そこにインクのペンが動きながら、時間と高度を同時に書くものだった。今の電子ブラックバックスの祖先と言えよう。高度計は日本製で1mから表示されるようになっていた。
このように粗末なものばかりだったけど私には宝のようなものだった。グライダーに付ける羅針盤は最後まで入手できず、私の腕時計に付いている南北指針磁石を使うしかなかった。これだけでも当時としては珍しいものだった。左右傾斜計は指の大きさくらいのパイプ型のガラス管だが、両端が詰まっていて中に水が入っているものだった。中にある空気が動いて水平や傾きなどを現してくれるものだった。速度計は入手不可能でもあるが、なかったらなかったでやるしかなかった。耳に聞こえてくる風の音で識別するしかないだろう。でもちょっと工夫して原始的なものを付けた。
細い鉄糸の先にドュラルミン版をマッチ箱の大きさで切り、機体の外の方に付けて置いたのだ。速度によって風に当たる強さで動く様子をめもりで読めるようにした。これだと昼には速度計として使えるが、夜だと見えないからどうせ耳に頼るしかなくなる。次はラジオと夜間飛行に必要な装置だ。
トップに戻る ↑16. 夜間飛行のための準備
滞空記録を立てるためには夜間飛行を覚悟しなければならない。もしかしたら一日だけではなく二日もしくは三日まで空を飛んでいるかもしれない。それで6 V の重い蓄電池も積んだ。これはレシーバーになっているラジオと室内灯、そしてソアラの下に付いているフラッシュライトに必要な電源だ。これらを操作するスイッチも計器版の隣の壁につけてあった。
ラジオは長時間のあいだ社会と隔離された孤独感を癒すためで、フラッシュライトは夜間飛行時にグライダーの位置を知らせるためだった。当時はトランジスターなんかなかったので、着陸用のヘッドライトのような装備は考えられなかった。
このような電気装置をすすんで付けてくれた同胞がいた。日本高等工業学校出身の「金ひょんしく」という 30 代の青年だった。大阪毎日新聞社の裏でラジオ店を経営していたが、李ホテ毎日新報の支局長から私の話を聞いて駆けつけてきて応援してくらたのだ。
飛行少年団の「きょうや」主事は、いつも近いところで協力してくれた。彼は日本軍納品会社である日本戦時熱量食研究所からミカン箱くらいの大きさの箱を二つ持ってきた。さまざまな熱量食が入っていたが、好きなものは何でも持っていけと言ってくれた。長時間空を飛んでいてもこれを食べていると空腹感がしないと言った。
これを自分の部屋に持ってきて、一晩中味見をしながら選んだ。ワイン、ミルク、キャラメルも選んだ。キャラメルはこしょうが入ったピリ辛のものもあったが、感触がよくてさわやかな気持ちにさせてくれた。
相当な量と種類を選んだが、これらを機体の内部の壁にぶら下げるつもりだった。これをくれた会社は、そのテスト結果を後で教えて欲しいと言った。コーヒーを濃く作り保温ビンに入れて、眠くなるようだったらこれを飲むつもりだ。紙のナップキンも容易した。
ホッカイロという懐炉も薬局で5つ買った。大概は老人が使うものだった。このためにマッチも容易した。携帯用のナイフも用意した。寒さで機内のセロパンのガラスが凍った場合には外が見えないため、その氷を掻き落とすためだった。
また病院で使う氷袋も3つ買った。小便を処理する道具として使うつもりだった。これだけでは安心できないため、機体の床下に穴をあけ、外の方へゴムパイプを繋いだ。内側の端を機内の壁につけて、処理しやすくするためだった。
これで準備は完了だ。後は磁気高度計や時間記録計の検認だけをすればいい。それから私は空を飛ぶようになる。その時が待ち遠しい。
ついに長い道程に乗る日がきた。グライダーを持って生駒山に登るのだ。磁気高度計と時間記録計を持って航空局大阪出張所に行って木下検査官から検査を受けた。
検査が終わって記録計器の用紙を入れてから、インクも入れてくれる。機械の箱を閉めてから鉄糸で縛り、鉛で封印することで手続きはすべて終了になった。
大阪気象台から良い予報が届いた。中国大陸に新たな高気圧が形成され、低気圧は日本東北海上に発生しているとのことだった。高気圧は今まで通り低気圧に沿って移動するに間違いない。
今日は曇りだ。時々雪が降ってきたが、明日の朝からは4~5mの風速の西風が吹いてくるとの予報だった。
少年飛行団の「はやしあきひこ」学生番長が団員たちを集めた。学生たちは私がグライダーの装備を準備している時から手伝ってくれたが、ミズノの同僚たちも 7 ~ 8 人加わった。
この日は、ちょうど土曜日で人は十分に集まった。機体をトラックに積んで生駒山のケーブルカーの中間駅である生駒町に到着した。ここまでは道路があるけど、これ以上は行けないのでケーブルカーに乗るしかない。羽は何とかしてケーブルカーで運んだが、胴体は到底入らないので結局かついで運ぶことにした。
日は暮れて町には明かりが付いてきた。月も出ていなく真っ暗の夜、線路の上に積もった雪で足元はすべるばかりだった。隊員たちは太いロープをグライダーの胴体に巻いて、両サイドから肩にかけて引っ張り始めた。すこしでも油断したら胴体を落とし壊すところだった。今の寒さならマイナス 10 度くらいはあるらしかった。私は後ろから押しながら付いていった。私たちが山頂についたとき、ウメズ支配人が出して常国滑降士と彼の一行も会社の 301 号ソアラを運んできた。同じ会社の従業員なのに二つに分かれて機体の点検をするのは不思議なものだった。
出場間じかになって、今回の主催は飛行少年団の名前で行われると宣伝された。そして航空婦人会とその他の社会団体からの後援ももらって大きな行事になると、大阪毎日、大阪朝日の記者たちも集ってきて取材を始めた。
「きょうや」主事は、これを飛行少年団の名を知らせるチャンスとして利用したく、山上のホテルの手配、関係機関への通報、手続きなどをやってくれて、事後処理のことまでも考えていた。
トップに戻る ↑17. 正念場になってなんていうミスを
私は着陸予定地である盾津飛行場の夜間設備を考えていた。その飛行場には夜間着陸のための施設は整っていなかった。電球ひとつ付いてない草畑なのだ。その飛行場には義勇飛行隊が使う宿舎があり、そこに私の友達である「韓・さんぐ」がいた。彼は「きずがわ」の運航部で整備士として働きながら陸上飛行機の練習をしていたが、事故を起こしてからこっちに来るようになった。
その事故とは、飛行練習時間が 15 時間に至と誰でも単独飛行をするのが普通だが、彼を指導する教官は時期になってもやらせてくれなかった。技術を教えてくれずいつも同乗飛行を続けるのだった。ある日韓・さんぐは、教官が出社する前に飛行機を出して単独飛行をした。本人自身は自信もあり皆に自分の実力を見せたい欲もあった。何回かの無断飛行の途中で、空から皆が出社しているのに気がついて、ばれないつもりでアスファルトの滑走路への着陸を試みたが、着陸に失敗して飛行機を破損し彼も負傷した。その後彼の懲戒として航空機に関する免状の縛脱されるようになった。しかし彼は飛行機への未練を捨てられなく工夫した結果、日本国需義勇飛行隊の整備士として働くことにした。ここなら免状はもらえなくてもテスト飛行ができるからだった。その義勇飛行隊が使っている飛行場が盾津飛行場であるわけだ。
飛行場の周りが田んぼや畑ばかりである盾津飛行場の東8km地点に生駒山の頂上が見える。私は彼に夜間着陸に備えて焚き火を炊いてくれと頼んだ。焚き火は風向に平行して50m間隔で立てるように頼んだ。近所には工場が多く、その煙突から出る火があるので飛行場の明かりと区別がつかないからだった。
飛行少年団の「あかしあ 1 型ソアラ」と「ミズノ301号ソアラ」は、同じ山上ホテルを使いながら夜の作業をした。隊員たちは寒い夜の風に震えながら、コタツに足だけを入れて寝ながら合宿をした。
「きょうや」主事は、私に綺麗な部屋とお風呂も用意してくれた。食事も特別なメニューで作ってくれた。しかし私は暖かい味噌汁だけを飲んだ。食事を取ると後で排泄が心配になるからだ。私には熱量食があるから就職も朝飯も味噌汁で済ますつもりだった。
日が明けて来る朝方、東の空が赤く染まったお天気だ。風とともに散らかっていた雪もやんだ。東の方には奈良の平野がかすかに見えて、西の方には大阪近郊一帯のホテルや山の木々が綺麗だった。「きょうや」主事がコーヒーを保温ビンに入れて持ってきた。私はそれを他の食料品や備品と一緒に機体へ積んだ。
うちの隊員たちは白く息を吐きながらホテルの外側の丘で機体を組み立てていた。山上の風速は10m。中国大陸の高気圧と東日本の低気圧が場所を取り、待っていた西風が吹き始めたのだ。生駒の西側のふもととその一帯には上昇気流が充満している。1秒でも早く飛んで滞空時間を延ばさなければならない。私は心から急いだ。
機体を出発地点である南西部頂上にある航空用灯台へ運び最終点検をした。滑りやすくするためにパラピンの塊を機体の下にあるスキー板にこすりつけた。土に埋めてある滑走路にも塗りつけた。こうすると短い距離でもスピードが出て飛びやすくなるのだ。
さ、準備完了だ。出発だ!しかし、その瞬間少年団のはやし学生番長が泣きそうな顔をしてかけてきた。「大変です。ゴムワイヤのショックコード忘れてきました」ショックコードがなければグライダーを飛ばせるのは不可能だ。何でそんな基本装備を忘れてきたのか、一瞬全身から力が抜けてしまった。
トップに戻る ↑18. 静かな世界から風の音だけが
人がやっていることだからミスは付き物だ。いまさら気を落としてもしょうがない。向こうではミズノのソアラを組み立てる作業が続いていた。そういえばうちの隊員の作業が早かったのだ。しかしこんなに大事な時間を無駄にするなんて・・・常国組にショックコードを借りるのも考えてはみたが、向こうも私より滞空時間を延ばしたがるはず、自分のミスから生じたものを相手に頼むわけにはいかなかった。
私の作業着の中には新聞紙を二重にしていっぱい詰め込んだ。肩、胸、腕、膝までいっぱい詰め込んだ。それで歩くたびに新聞紙の音がする。まるでサイボーグなのだ。私としてはこれで完璧な防寒装備を揃えた。目を除いてマフラーを顔いっぺんに巻いた。両サイドのポケットには懐炉が入っていてほかほかしている。
ラジオのスイッチを入れた。1,2,3,4、と体操の音が流れていた。私は靴を脱いで外に投げた。素足で操作した方が楽だろと思ったからだ。どうこうしているうちにミズノ301号が飛ぶのが見えた。はやし学生番長がすばやく向こうのショックコードを借りてきた。今回は私が飛ぶ番だ。太陽は完全に昇り、早くお前も飛びなさいと言っているように見えた。「きょうや」主事が後ろの奥に入れてある自動高度計と時間計器にスイッチを入れてくれた。作動開始だ。秒針が回る音が大きく聞こえた。
団員たちは私のソアラの前で、八の字に、二つに分かれてショックコードを引っ張る準備をしていた。「きょうや」主事が私の手を握り締めて成功を祈ってくれた。グライダーの防風用の蓋が閉まると私は皆に手を振って見せた。皆も私に手を振ってくれた。はやし学生番長の合図でショックコードは引っ張られ、私が乗ったソアラは空へと飛んだ。そして生駒山頂が後ろへ流れていった。
私が空中へ飛んでからそこまで聞こえてたラジオの音がとまった。技術者が設置してくれたのに、地上から離れたら何にも聞こえなくなったのだ。静かで沈黙の空間になっていた。しかし気持ちだけは自由で爽快だった。聞こえてくるのは機体を過ぎ通る風の音しかないけど、私は安らいだ気持ちだった。風速は秒速13mの強風だ。マイナス13度の冷たい空気が風を起こし凄まじい音を出している。この大気の中では風の音だけが私の友達だ。
1941年1月26日日曜日、離陸時間は8時10分、常国が出発してから45分後だった。
トップに戻る ↑19. 雪雲の中で高度を守る
私が乗っているアカシア1型ソアラは良い気象コンディションに乗っていた。出発する時から両羽の端から震える音がしているけど、それは秒速1mの高度で上昇していることを表してくれるのだ。その音の強弱から上昇気流の程度が分かる。上昇気流がまったく無い場合は、水の中に沈んでいるかのような気持ちで音も静かだ。できるだけ高度を確保しなければならない。
出発してから6分、1000mの高度まで上がったがまだ上昇し続けている。私が乗っているソアラは1mの上昇速度を出している。これで見ると、上昇気流は2mに発生していることが分かる。ソアラの沈降速度の1mを引くと、ソアラは秒速1mのスピードで上昇している計算になる。上昇する時はお尻の方におもったい圧力を感じ、まるでエレベーターが急上昇する時の感じと一緒だ。
高度の上下を知らせてくれる昇降計があったが、最初から故障でまったく作動していない。結局高度計で判断するしかなかった。
私のソアラは今、時速50kmから60kmの間にある。斜面上昇気流に乗ってあがって行く様子だ。窓の外に私自作の速度計が付いてある。良い上昇気流に会った時の目盛りを覚えておいて、下降気流に会ったりして高度が下がった場合には、先のいい場所に戻らなければならない。こういう風に高度に余裕を確保してからはもっといい場所を探すほど心に余裕ができた。そして生駒山の景色や西の空を眺める余裕もだきた。この時私の高度はこれ以上上がらなかった。1時間の間ずっと1000mから1100mの間を飛んでいただけだ。もっと良い上昇気流に会えずただ下に下がらないように粘るだけだった。
空中に浮かんでいて1時間くらいたったら、西の空が黒く曇ってきた。強い風に雪混じりの大きな雲が押し寄せてきたのだ。私のソアラは動揺し始めた。強風の上昇気流にでくわしたからだ。私は心の中から喜んでいた。雪雲の中に入ったとしても自分の位置だけは失うまいと気を改めた。機体は今1.5mの上昇速度で上がっている。私は生命水でも飲んだかのように勇気が沸いてきた。絶好のチャンスだ。
私の神経は高度計と羅針盤に集中した。羅針盤は自分の腕時計についている爪の大きさくらいのものだ。その小さい指針だけが唯一私を引っ張ってくれる灯台の役割をしてくれる。雲の中へ入る前に方角を決めなければならなかったので、私は左腕を胸にしっかり固定した。腕の羅針盤の指針の方向を見届けるためだった。雲の中でも今までの方向をそのまま維持しなければならないからだ。雲の中に入ると5分または10分、ある時は15分以上も雲の外に出られなくなる。雲の大きさによって違い、雲の大きさは地上に書かれた陰で見当をつける。そこから風向きや速度まで予想できる。
雲の隙間から時々日差し見えたりする。大きな雲の下には大粒の雪が降っている様子がどす黒く視野に入ってくる。私は雲の中で雪に打たれている。窓の外を白い雪粒が通りすぎていく。
雪の中にも上昇気流はあった。私の機体はつねに震えながら気持ちよく上へ上がっていく。ある時は雲が足の下に見えるのに、私はまぶしい太陽を全身で受けながらどんどん上昇していく。
あれこれ50分くらい雲に入ったり出たりしながら奮闘してきたら、高度は2500mになっていた。これくらいなら十分余裕がもてる。今足の下には二重になっている雲が西から来て東へ流れて行くのが見える。
私の足元と左右にはキャラメルの皮散らかっている。今まで緊張感をほぐすために、片手で一個ずつ向いて食べてきたのだ。今も休まずクチの中に入れてある。緊張のこともそうだしあまりにも静かで退屈だからキャラメルでも食べないと耐え切れないくらいだから。
足の先と手の先をこすり合わせながら寒さに耐えていた。胸の内側のポケットにはほっかほっかの懐炉が体を温めてくれている。もう気持ちはかなり落ち着いてきた。
トップに戻る ↑20. 機体内で寒さと戦う
今私の時計の針は10時をしめしている。足の下にあった雲は少しずつ減ってきて、快晴な視野を見せている。果てなく広がっている視野には、大阪港と神戸港、その後ろに奈良平野、またその北東には京都までが見えそうだった。マイナス13度の寒さは息を凍らせ、ガラスを凍らせた。2500mの高度で向かう冬の寒さだ。
窓に氷がこびりついて先が見えない。顔の眉毛にも息で作られたきららができている。手袋を嵌めた手の甲で拭きながら、ナイフで窓に付いた氷を掻きだす。氷のかけらは私の膝を白くさせた。一度掻いたところは再び凍りやすくなる。何回か繰り返しても効果がなく、両サイドにできている手の平の大きさの窓を開けることにした。強烈な冷たい風が機内に容赦なく入ってくる。寒いのは仕方がないが、それでも視野はよかった。高度は続けて2500mを維持していた。機体の均衡はよくとれていて足手を使わなくても水平を維持することができた。高く上がっているからまだ余裕はあるのだ。
食べる気もまだしない。熱量食がぶら下がったままだ。ワインでも飲んで見ようと思ってワインを出した。手袋を嵌めた状態では紐を解くことができないから、片手で持って口で明けようとした。その瞬間セロパンが破れてしまい、ワインが顔や壁など周囲に撒き散らされた。タオルで顔や窓を拭いたが、窓はワインのアルコール成分で拭けば拭くほど曇ってしまう。もう前方がまったく見えなくなった。それで前を確認するためには、機体を 90 度曲げて確認してから戻るしかなかった。このような操作で困ることはないが、寒さを克服するのが問題だった。それでも靴を脱いで靴下だけで乗ったのがましだった。足の先っぽが凍えたら両足をこするとよくなるからだ。
高い空では足を使う必要がない。13mの強風だから機首の方向を 30 ~ 40 度くらいずらしておけば風に流されて左右または後ろへ移動するからだ。もし 180 度の角度で旋回するとあっという間に遠くまで流されてしまう。いったん遠くまで飛ばされたらもとの場所に戻るまでは相当な時間がかかる。風を受けながら飛行するからだ。
遠くの大阪海岸の波がかすかに見える。寒い冬の海風だからきっと厳しいだろう。しかし、空から見下ろしている私の目にはまるで絵のように綺麗に広がっているだけだった。
トップに戻る ↑21. 眠気を飛ばしながら
南の方に視線を移した私は、そこで 1 台のグライダーを発見した。常国が乗っているミズノ 301 号ソアラの姿だった。二人で空を飛んではいてもこのように会うのは珍しいことだ。それに自分の期待を操るのに一生懸命だから相手のグライダーなんか探す暇がない。大体の場合、各自の考えによって自分に合うコースを決めて飛行するので、相手のグライダーを見つけることはできないが、この時の私は余裕を持って視界を広げていたので相手のグライダーを見つけることができた。
朝出発した生駒山頂の航空用灯台まわりも見えた。そこには豆のような物体が二つ動いていた。きっと私の友達か団員だろう。また右手の北へ視線を移した。遠くから私と同じ高度で 1 台の飛行機が接近している。ユニバーサルスーパーという単発単葉旅客機だった。私が飛んでいるところ近くまで来ては、羽を動かし、機体の窓から手を振ってくれながら私を見る 3 人がいた。後で知ったが、彼らは「いたみ」大阪飛行場長「まつい」パイロット、大阪毎日新聞社の「しずるだたお」航空部長、「なんぱ」航空官の三人だった。彼らは新記録に挑戦している私を応援するためにわざと飛んできたのだった。
私は依然として空腹感も感じず、ひたすらキャラメルだけを食べながらその皮を下に散らかしていた。
30 分間以上高度2500mを維持した。後ろから照り付けていた太陽が今は頭の上に昇っている。時間は 10 時 30 分。太陽のおかげで窓を閉めてもくもらなくなった。眉毛にできたきららも心配する必要がなくなった。緊張感が解消できるとだるくなってしまう。長い時間雲の中で羅針盤、高度計、左右傾斜計などの計器に集中していた疲れが出てきたのだ。
胸の中で入れてある懐炉のぬくもりも今は消えた。もうこれ以上必要でもない。ただ緊張が解され眠気がするのが心配だ。今は視界飛行だから難しいことは何もない。じっと座っているだけだからまぶたがどんどん重くなってくる。指で膝を抓ってみても効果がない。目は開けているのに焦点が合わずぼんやりして見える。寝てはいけない!みずから自分をしかりながら目に力を入れた。このまま寝てしまってどういう結果になるかは誰が見ても明らかだ。考えの末に両側の窓をめいっぱい開けた。冷たい風が激しく入ってきた。両頬が痛いほど寒かった。ここでようやく眠気を追い払うことができた。眠気から脱出できたのは何よりも幸いだった。
壁にかかっている栄養食が目に見えたが、空腹感も喉渇きも感じなかった。空ではやっぱり糖分だけが必要らしい。
こういう風に 40 分くらい経つと、高度は徐々に下がってきた。上昇気流が限界に至っているも知れない。これ以上高度が下がる前に、上昇気流が発生している場所を見つけなければならない。さんざん探しまわっても適した場所が見つからなかった。高度は200mも下がっていた。粘りに粘った末やっと100m上がることができた。しかしそこから少し経ってまた300mも下がってしまう。すべての力を絞って200mの上昇ができたのだが、このような上下の繰り返しで、高度は徐々に下がる一方だ。
今の高度は1000mから上下している。生駒山の中腹を中心にして、上空を数十回旋回しながら、一番良い場所を見つけては滞空時間を延ばすのに頑張った。それ以上高度が下がらなかったことだけでも幸運かもしれない。時間は 1 時 30 分。
目に見えない気流と戦いながら、高度を上げようと精一杯努力したが、時々700mまで下がったこともある。700mは生駒山頂との差がわずか100mしかない低い高度だ。夜間飛行まで覚悟している私としては、いてもたってもいられない状況だった。
トップに戻る ↑22. 上昇気流に乗って滞空に粘る
とにかく着陸したとしても慌てないで済むように、前もって気持ちを整理して置かなければならない。万が一の場合、出発地点に下りるようになりかねない。悔しいけどしょうがないことだ。次のチャンスはまた来るはずだから。
焦りの気持ちを抱いたまま滞空しながら、適当な着陸地点を物色してみた。低い高度なので下手して下降気流に出くわしたら、高度を回復させる余裕はない。計器をチェックしながら寒さも忘れて、手足を操りながら複雑な頭の中を整理するのにいっぱいだった。時間はもう午後 5 時 30 分。
今まで高度1000m以下にとどまっていた機体は、また900mまで下がった。西の上空には夕日が放物線を描いていた。その薄暗い空から弱い閃光が見えた。何だろう?目を凝らして見たら、それはミズノ301号ソアラだった。羽の上部が光に反射されて見えてきたのだ。機体が少し傾いているのを見ると着陸準備に入っているに間違いない。
あ、常国が降りるのか・・彼も限界まで粘っただろう。これ以上上昇気流に会えないと判断し、安全に着陸するつもりらしい。
地面から暗くなり、町には明かりが付き始めた。山頂にある航空用灯台からもライトがぐるぐる回りながら光を発していた。私は夜間飛行をすることにした。今のような夕方は、海の風が一時的に静まり、強風による上昇気流はこの辺では消えている。しかし上昇気流に会えるところまで最善を尽くすつもりだ。もはや恐怖感もなくなった。
生駒山の642mの高さまで、私のソアラの高度がさがるまでは、航空用灯台を目印として旋回することにした。灯台の明かりは私にとって良い道案内なるだろう。
付近の色んな町にはところどころ工場が建てられていて、その高い煙突から出る煙が30度角度で上がっていた。風が無いからだ。それで私が乗っているソアラは強風に会った時とは違って、横に流されることはなくなった。正面を向きでただただ地上に近づいていくだけだ。
午後からずっと1000mくらいの高度を維持し、暮れかけから700mまで下がり、生駒山頂に手がとどくほど低くなった。こうなっては急いで着陸準備に入らなければならない。しかし日没は私にもう一つの幸運をもたらしてくれた。地形上昇気流から夜に発生する潜熱上昇気流に乗り換えることができたのだ。私が習った気象学で、理論だけ聞いていた潜熱上昇気流をここで実際に体験することができたのだ。
周りは完全に真っ暗になり山も暗く見えるだけだ。空には数多い星が輝いていて、座席の前に付いている高度計が青い光を発していた。この高度計が示している数字がこれからの運命を左右するだろう。外に付けてある速度計はもう見えない。今は耳に聞こえてくる風の音で速度を調節するしかないのだ。
灯台からのサーチライトがソアラの下を照らしては消える。赤、青、白の3色光線だ。私は灯台の西川を中心として 700 mの高度で水平飛行を続け、上昇気流圏内にとどまるために、長さ 800 m、 700 m、 600 mの三角コースを描いて直線距離を旋回した。この旋回区域が小さいのですばやい操作を行わなければならなかった。下には生駒山の谷が口を大きく開けて待っている。操作を間違ったらどの頂にぶつかるか分からない。私は暗闇の中で前方に集中していた。
西の飛行場の方向に焚き火が二つ目に入ってきた。東西へ並んでいるその焚き火は、私の友達である韓・さんぐが用意してくれたものに間違いない。「あ、ありがとう!」あっちこっちから燃え上がる工場の煙突の光がみんな似たり寄ったりで、肝心な飛行場の位置を知るのは極めて難しいことだが、遠くからでも東西に並んで燃えている焚き火は、飛行場の位置をはっきりと知らせてくれるのだ。これで安心だ。いつでも着陸する準備はできている。ただ今は少しでも長く滞空するように時間を稼ぐだけだ。
もはや着陸は時間の問題だ。三角コースを旋回している私のソアラは、動揺もなく静かに滑降している。まるで部屋の真ん中に座っているように気持ち良い滑降だ。高度700mを維持している私は、秒速1mの潜熱上昇気流に乗って滑降し続けている。今もキャラメルを食べている。そして両手と両足は操作に忙しい。キャラメルの糖分のお陰なのか、長時間の飛行にも全然疲れは感じなかった。私は暗闇の中でひたすら機体の操縦にだけ神経を使っていた。こうしてどれくらい経っただろうか。急に下っ腹が痛くなってきた。急にとも言えないが、さっきから我慢していたものが到底我慢できないほど膨らんできたのだ。小便ってやつはこのように人にいたずらをするらしい。生理的本能というものは本当に身勝手だ。氷袋も用意したし、機体の下にゴムホースも繋いである。しかし今の状況では使えようが無い。高度が低くて少しでも余所見をしたら事故になりかねないからだ。出産まじかの妊婦ってこんな気持ちだろうなと思った。
今の時間は午後7時10分。空中に浮いていた時間は11時間を越えた。ソアラは機体を少しずつ下へ向けていった。三角コースを一回まわり灯台の方に戻る度に、ライトの光がどんどん近くなる。潜熱上昇気流の温度が徐々に冷めていく証拠だ。
もう私が飛ぶ時間も後少しだ。他の欲を出せるような余裕もない。血管を締め付けてくるような息苦しさを感じながら、ほぼ悲鳴を上げそうな段階までいたった。
トップに戻る ↑23. ソアラは静かに地上に降りた
盾津飛行場から燃えている焚き火が遠くに見える。歯を喰いしばって奮闘している私の姿を他の人が見たら、きっとこの世でも珍しい奴だなとからかうのに間違いない。下っ腹はどんどん膨らみもう破裂寸前だ。我慢にも限界いがある。これ以上はだめだ。
ついに爆発してしまった。まるで滝のようだ。ヅボンの中が暖かく、ぬるぬるした感じでいっぱいになった。中に入れた新聞紙も濡れてしまった。しかしすっきりできた。今はすべてのものが自分のものになったかのような気持ちだ。下に見える焚き火も灯台の光もくっきりと見えるようになった。
これで難題は解決したが、これからは着陸の準備で忙しい。今は最低限の高度にとどまっている。自分の位置を地上に知らせるために、外にある表示灯のスイッチをいれた。
ところが、今回は予想もできなかった難題にぶつかった。下の方が冷たくなってきたのだ。大気の寒さはすべてを瞬時にでも凍らせそうな寒さだが、皮膚がしびる程ではない。ぬれた新聞紙が凍ってしまい、下はまるごと氷の中に溺れている感じだ。しかもその感触は不愉快極まりないのだ。
しかし、もう少しでも滞空時間を延ばすのが先だ。灯台の強烈な光がまぶしくて目を開けることすらできないくらいだ。それくらい地上から近くなったわけだ。何分後もう一度旋回して戻ってきたら、灯台の光が頭の上にあった。機体の高度は642mの高さの生駒山より低く、これ以上の飛行はできなくなった。やむを得ず着陸準備にかかった。
しかし、まず注意するべきことがあった。盾津飛行場の進入路の上空には高圧線が無数にある。これを無事に超えて着陸しなければならないのだ。そして機体の平衡を維持しながら速度調節にも注意しなければならない。
私は着陸の目印である焚き火に向けて徐々に高度を下げた。50m間隔の焚き火の傍に軽く機体を座らせるつもりだ。高度は二つの焚き火で判断するしかない。暗闇の中では他に方法がないからだ。
生駒山の灯台を背にして6分、私のソアラは盾津飛行場から燃えている焚き火の横に羽を広げたまま静かにとまった。午後7時50分。滞空時間11時間40分。私の飛行歴史の1ページが飾られた。 - 終 -
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