今年も6月が終ろうとしている…
by 竹下 南
毎年6月はやって来るのだけれど、2015年の“6月”は戦後の節目という意味でいろいろ問題点を浮き彫りにした6月だったといえよう。
一つは50年前の1965年6月22日、日本と韓国で締結された「日韓基本条約」の現在まで引きずる問題の数々。
一つは、70年前の1945年6月23日、太平洋戦争末期の沖縄で組織的戦闘が終ったとされる「慰霊の日」を迎えるなかで、なお強固に続く沖縄の米軍基地問題。
これらは近現代史の観点からみて、共に“強者”の立場からとらえた“身勝手”によって解決が難しくなっているのではないかと考える。
まず前者に関しては、日本政府はかつて日本が行った不当な植民地支配を認め、朝鮮半島の国土・人々を蹂躙した過去の歴史を直視し、その上で和解・友好の関係を構築しなければ問題解決が遠退いていく一方であることを考えたほうがよい。常に俎上にある両国間の歴史認識のズレを、一朝一夕に正すことは困難かもしれないが、ドイツのように“総括・反省・謝罪・和解”といかないのだろうか。
日本と韓国の間で最大の懸案となっている日本軍「慰安婦」問題にしても、日韓条約と同時に結んだ4協定のひとつ、「請求権・経済協力協定」を根拠に両国が請求権を放棄したことで、被害者への賠償を過去に対する賠償から経済協力という形で決着をつけたことに問題の端緒があるようだ。いくら戦地でのこととはいえ、金学順氏をはじめとした被害者らが受けたむごたらしい精神的・肉体的惨状をわたしたちが少しでも想像できれば、当然のこととして“我が事としては何を望むか…”は明白になって来よう。
それは ──心からの反省・謝罪、その上での賠償なのである。
そして後者について。日本の宣戦布告により日清・日露戦争がはじまり、朝鮮半島の植民地支配、満州事変、日中戦争、太平洋戦争とわずか50年の間によくぞまあ、日本はこんなにも沢山の侵略戦争に挑んできたことかと思う。その結果近隣諸国に甚大な被害・損失を及ぼし、そのあげくの果てに日本は敗戦し、ポツダム宣言を受諾して終戦をむかえることになる。
さて、ここでの強者は連合国=とくにアメリカ合衆国だ。1945年から6年半占領下にあった日本がサンフランシスコ講和条約によって独立をはたした後も、アメリカは最後の激戦地となった沖縄を管理下におき、1972年日本に復帰後も在日米軍施設の約74%が集中する「日本であって日本ではない」状況を現在まで続行させてきている。日米安保条約のもと、在日米軍は沖縄を東アジア安全保障上の要所として決して手放そうとはせず、日本政府も本土から「遠い」沖縄を、本土決戦「捨て石の島」の再利用のごとく、ないがしろに扱い続けている現実がある。
昨年11月、20年ぶりに沖縄本島を旅行したときのこと。車で走る国道の両脇にはどこまでも続くフェンスがあり、その向こうに広がる米軍施設の数々に度肝抜かれてしまった。まさに星条旗はためく米軍キャンプのなかを遠慮しながらおそるおそる車で通過させてもらっている感じに、思わずここは日本なのにこの物々しさは何?と怒りがわいてきた。
またひときわ瀟洒な家々が連なる米軍専用高級住宅地「砂辺地区」を見たときも我が目を疑ってしまった。一見すると、まるでどこかのリゾート地のようなおしゃれで広々とした家。これらは“思いやり予算”で建てられ、これら米軍人居住地域の上には決してオスプレイをはじめ軍用機は飛ばないそうだ。
そして、どんなに理不尽なことが起きようと“日米地位協定”があるかぎり、アメリカ側の思うままにことは運ばれてしまう。まさに治外法権そのものといえる。
☆ ☆ ☆
「相手の身になって考える…」こんな当たり前の小学生でもわかるようなことが、どうして国家間になると難題になってしまうのか…。
「加害者と被害者の立場は千年の歴史が流れても変わらない」(朴槿恵大統領13年3月)
では、いったいどうしたらよいのだろうか…?
「韓国の人は日本を嫌いでしょう?」そんな疑問を持ちながら韓国内を旅していると、いたるところで親切な韓国人に出会い、むしろ日本の文化に興味をもってアニメ、漫画などいろいろ尋ねられることも多い。
4月に訪韓したとき江華島までの1日ツアーをお願いした年配のタクシー運転手さんと日本語・韓国語、ときには英語を交えて楽しくおしゃべりをしたことを思い出す。ソウルを出発して「伝燈寺」「江華アルミエワールド」「江華コインドル公園」「江華歴史博物館」と見て回り、最後に「江華平和展望台」へ行った時のこと。江華湾を挟み対岸の北朝鮮までは最短距離でたった2.8㎞、望遠鏡を覗くとナント歩いている人々の姿が見えるのだ!
あぁ~、それなのに双方の“遠さ……”
わたしは韓国人である運転手さんに拙い韓国語で「日本人として心が痛みます…」と思わず言ってしまった。運転手さんはジィーっと私を見てひと言「…そうですか」と静かなまなざしを返してくれた。
それ以上なにも話さなかったけれど、ソウルへの帰り道、その運転手さんは道端のお店で江華島名物の人参マッコリを買ってきて1本わたしにプレゼントしてくれた。
江華島を思い出すとき、きまって薄ピンクの人参味のマッコリとあのときの運転手さんのまなざしが浮かんでくるのである。- 2015.6 -