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日本人が束になっても勝てない韓国人

世の中にはすごい人がいるもんだと教えられたのが韓国に来てからのことである。今から10年前の1996年2月末にソウルに本社のある韓国の関連会社に赴任、翌日には右も左も分からぬまま韓国語で行われる会議に出席、えらい所に来てしまったというのが赴任当時の偽らざる心境でした。

兄弟会社にも同僚が一人赴任しており、心強くはあったものの赴任した会社では日本人は小生一人でしたからそれこそ緊張の連続でした。先ず始めたのが韓国語の習得の為の勉強。韓国外国語大学通訳課の優秀な先生(若い女性)について勉強したが一生懸命やった割には上達せず、先生には申し訳ないと思っている。(先生は日本の方とご結婚され、現在東京近郊にお住まい)

小生の住まいは、御多分に洩れず東部二村洞にあるアパート(会社の社宅)、そこに10年間住むとは思ってもいませんでした。同じアパート団地に住んでいる日本語堪能な経営のトップと毎朝7時40分に待ち合わせし、第3トンネルを越えた所に有る某ホテルでコーヒーを飲み8時半にそこを出発して8時45分頃出社、午後6時には退社し、何もなければ7時には帰宅、自分で料理を作って食べ、NHK TVを見ながら午後11時に就寝、朝6時起床と至って健康的な10年間を過ごして参りました。勿論、最初の頃は漢南洞のカラオケにも夜な夜な出かけたこともあったものの、直ぐ飽きてしまい、もっぱら食い気の方に走ってしまった。

ソウルの日常の中で一番重要だったのは、朝の某ホテルでのコーヒータイム。このコーヒータイムに経営トップと話をし、取り決めたことが、直ぐ会社の経営に直結、日本では考えられないスピードで物事が進むことに驚きと心配がない混ぜとなったことは数え切れない。

例えば、主原料がTightとなり、韓国での調達先だけでは原料が不足する状況となったとしよう。この時とばかりにこちらから日本からの調達を進言しても、最後まで韓国の調達先を慮り、原則を曲げないという強い意志と日本の大株主の言いなりにはならないとの韓国魂は凄まじいものがあり、驚愕させられた。

その代わりに後日、相手の顔を立てることはしっかりと忘れない。

その交渉の為に出張してくる日本の役員がそれこそ手玉に取られる姿を見るのはあまり良い気持ちではなかったが、原則を守り通しての先を見越した大局的なものの見方には教えられることが多々あった。

韓国の政治、経済、文化に深い見識をお持ちであることは勿論のこと、日本の政治、経済、文化についてもびっくりするくらいご存知で、全く頭が下がってしまう。特にスポーツは相撲、野球、ゴルフと多岐にわたり、こちらが教えてもらうことが度々であった。ご本人の趣味はゴルフ。スコアメークはお手の物でいつも92,93で回られる。従い、チョコレートを取られるのはいつものこと。ただ、こちらが勝った時に少し渋い顔をされるのが玉に瑕(きず)。こんな時にこの人も人の子であることを実感させられる。ゴルフに関しては、何でも来いといった調子で、PGA・LPGAに関わることは殆ど頭に入っている。

酒は一滴も飲めないがワインを語らせたら韓国でも右に出る人はいないのではと思わせる。女性が好むブランド品に至っては舌を噛みそうな横文字をスラスラと、どうしてそんなことまでご存知なのか呆気に取られてしまったことが数え切れない。生き字引とはこの人を指す言葉であると言わせてしまう。

記憶力と博識の度合いが群れを抜いており、このような方が韓国の大統領になっていたらと思うことが度々であった。韓国では親日と言われることが一番怖いとのこと、日本が大好きで年に数回は訪日をされるが、日本とは距離を置く自称、知日派である。すでに齢77、まだ現役に拘っておられるが、そろそろ自由になられてはと思う此の頃である。

小生、この3月下旬に帰国し3月末に日本の会社を定年退職し、定年を満喫している。一日がこんなにもゆったりと流れるものだとは、30有年余知らなかった。我々は少なくも良い時代に生きている。日韓の縁は深い、深いが為に難しい、が為に人がいる。日韓の個々の人の繋がりは草の根のごとく広がって途絶えることはない。これからも自信をもって日韓の関係を語ってきゆきたいと思う。

出処:ソウルジャパンクラブの会員誌、第18号より(2006年7月)